おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.5万円、在宅勤務のハケン社員になりました

駆け足で博物館 網走監獄 見学

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能取岬から網走刑務所に向かう。

17時閉館なので1時間あれば十分かと思ったが、けっこう広くて、資料ももっとゆっくり見たかったので、次回にすればよかった。

明治18(1885)年、北辺の巨大な島北海道に開拓の先兵として重罪囚を送り込み、廉価な労働力で開拓を進めるという、「北海 道三県巡視復命書」が金子堅太郎によって政府に提出され採択されました。内務卿の伊藤博文山県有朋らの懲戒主義論もこれを後押ししました。こうして北海道集治監は帝政ロシア南下の脅威から北海道を守るという国家的使命を与えられる ことになるのです。網走集治監は、中央道路開削という重要な任務を担うこととなり、明治23 (1890) 年に釧路集治監の外役所として設置されます。これが網走監獄の始まりです。当時の網走は、広大な土地に人口がわずか631人という小さな漁村でした。そこに1200名の囚人と看守173名が一挙にやってきて、網走の街は驚くべき変貌を遂げたのです。かくして北海道集治監は明治10年代から30年代まで北海道 開拓の起動力として運営されました。そして、先陣を切って北海道を開拓したという大きな功績と、約3000名にも及ぶ囚人の犠牲を出したという負の遺産を残したのです。

入場料(1,100円)。

煉瓦門

最初、本物の人が立っているのかと思った。

明治23年、 網走外役所創設当時と、 明治42年の火災焼失後復旧した正門と外塀は木造でした。 これを永久的な物にするため明治45年に用地内粘土で煉瓦の製造をはじめ、 大正8年から5年かけて築造しました。これが今も網走刑務所の象徴となっている 『赤門と呼ばれている』 正門です。この意匠は、 日本近代建築初期のものとして重用視されています。

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庁舎(重要文化財

売店と、網走刑務所の歴史を紹介したパネル、動画が見られる。

中央道路開削では200名以上の犠牲者を出したそうだ。

本建築にみる紋章入りの破風をのせた正面車寄せ、 押し上げ式の窓、 木造下見張りは、 明治10年前後、学校や 官公庁の建築にみられた様式で、 和洋折衷の 「擬洋風建築」といわれています。この旧網走監獄庁舎は明治42年の火災焼失後、同45年に再建されたもので、 網走監獄の管理棟として使用されていました。

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マネキンの店員。

ソフトクリームを買って食べる。

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教誨堂(重要文化財

教誨とは、僧侶、牧師などの宗教者が刑務所を訪れ、受刑者に人の道を説き犯罪ですさんだ気持ちを和らげ生へと 導くことを言います。明治45年(1912年) 建築の材料も作業で山から切り出した木を使って作りました。瓦も網走監獄の窯で焼いたものです。宗教的な意味合いのある建物ですので 「神仏の魂を宿す建物だ」と特に精魂込めて作ったといわれています。 戦前 (1945年) まで網走の教誨事業は、 仏教の浄土真宗東本願寺系の宗派が行っていたので、正面には仏壇をこしらえ阿弥陀如来像を安置していましたが、戦後は舞台に改造し多目的に使えるようにしました。 昭和56年(1981年)に移築復原し、平成17年 (2005年) 国の有形文化財に認定されました。

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宗教で人は変われるのかな、救われるのかな。

私ももっと歳を取ったら神仏を信じるようになるのだろうか。

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独立型独居房

これは樺戸 (現在の月形町) 集治監の懲罰房です。この房の立ち並ぶ周囲は木塀でおおい、その中を闇堂といい、房は外から光が入らないようにつくられ 「闇室」 とよばれました。獄内規則を犯した受刑者が7昼夜重湯のみがあたえられて入居させられました。

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煉瓦造り独居房は明治末期に作られ、平成3年に博物館に移設された(有形文化財)。

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冬の北海道で、こんな所に閉じ込められたら寒くて堪らなそう。

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浴場

●監獄の入浴
多くの囚徒が寝食をともにする刑務所では食中毒や伝染病の発生に気をつかい衛生状態の維持に注意がはらわれました。したがって入浴は衛生管理上欠かせないもので、 明治5年監獄則においても「毎日囚人を罷後 (作業終了後) 入浴せしむ」と定められていました。しかし実際には1ヶ月5回前後でした。一方、囚徒にとっては厳しい看視のもとで、わずか15分程度の入浴でありましたが食事就寝とともに所内では数輩ない楽しみの一つでありました。
●浴場の施設
この浴場は、明治45年から昭和54年まで網走刑務所で使用されていたものを再現したものです。「湯気抜き」を設けた木造平家総瓦葺きの建物は明治大正期の「銭湯」 の様式を偲ばせています。浴槽は、それまでの木製にかえて当時としては近代的なコンクリートで造られました。給湯は再建時に炊飯、 通電用に設置されたボイラーによって、 それまでの湯をわかしてくみ入れる差湯方法から鉄管を浴槽にとりつけ蒸気を通してわかす方法が取られました。

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現在では週に2回から3回入浴できるらしい。

毎日、朝晩入れなかったら加齢臭がしそう。

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​舍房及び中央見張所(重要文化財

​この舎房は明治42年の火災で焼失後、それまでの並列型の舎房に代って、同45年に再建された放射状の旧網走監獄舍房です。中央見張りを中心に雑居房・独居房・鎧格子・矢筈格子といった独特の建築技法を採用し、昭和59年9月まで使用されていました。明治時代の獄舎の名残を完全にとどめる舎房としては国内最大規模で、ことに木造では現存する我国最北端の監獄として学術的に貴重なものとされています。

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中央から放射状に5つの棟が建っている。 

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公式HPより

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雑居房と独居房。

雑居房はいじめとかありそうだから、独居房がいいな。

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厳寒の網走では、暖房器具の設備は、特に重要です。網走監獄においても、開設当初は、このように薪ストーブを 使用して暖を取っていました。その後、時代と共に石炭ストーブ、石油ストーブ、スチーム暖房と近代的に整備されてきました。第5舎58mの長い廊下には、ストーブ2台設置されておりました。設置については、均等に温かさが伝わるように非常に神経を使い位置が決められたものです。この薪ストーブと煙突は網走刑務所に当時使用されていたものと同じものの製作を依頼し、受刑者が仕上げたものです。

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監視員の顔が不気味 💧

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「昭和の脱獄魔」と呼ばれた白鳥由栄は、網走刑務所を含む4つの刑務所から脱獄したそうだ。

『破獄』という小説にもなっているので今度図書館で借りよう。

こんなに狭い視察孔から脱獄したとのこと。

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二見ヶ岡刑務支所(重要文化財

ちょっと時間的に厳しいんじゃないかと思い、駆け足で回る。

この建物は、網走刑務所の農園作業の先導的施設として明治29年に網走の西方丘陵地に 「屈斜路外役所」として設置されました。網走湖能取湖の二つの湖を眺望できる位置に建設されその後「二見ケ岡刑務支所」として改名されました。1世紀を超えた今日も、網走刑務所収容者の食糧を担う場所として、また広い農場で収容者が作物の管理から収穫まで自立的に行う開放的処遇施設として重要な役割を果たしています。現存する木造刑務所として最古で平成11年博物館に移築しました。各建物の建築年代は、庁舎、舎房、炊場が創建当時の明治29年教誨堂及び食堂が大正15年、鍵鎖附着所が昭和5年です。明治29年当時は各建物が独立して建っていましたが、大正以降施設の重要性が高まるとともに必要な建物を整え、渡り廊下で接続し、庁舎も改築され、ほぼ現状の586坪の農場施設になりました。

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木造獄舎としては現存する最古の舎房で、左回りに第1、第2、第3舎と十字型で構成されており、昭和25年 (1950年) の収容者減少にあわせて、第2舎房を取り壊し2つの舎房が使用されていました。部屋の特徴は鎧 (斜め格子) 椅子、向かい合い房、視察孔、食器口、天井観察器、本所の舎房と同じように造られています。 廊下は煉瓦敷き、トイレは置き便器が置かれていました。時代とともに収容者の人権に配慮し、 壁を取り除き独居房を確保するためアコーディオンで間仕切り、個室に整える工夫もなされていました。廊下にはストーブ2台しか置かれていなかったため、真冬の寒さを凌ぐように壁にコンパネを打ちつけ、天井にビニールを張り、熱が逃げないように防寒対策をとりながら100年以上風雪に耐え使用されてきました。

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用を足すときに見られてたら出るものも出なくなりそう。

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哨舎は有形文化財に指定されている。

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休泊所

受刑者が塀の外に出て、日帰りできない作業をする場合は「休泊所」と呼ばれた仮小屋で寝泊りをしました。明治24年の網走から札幌へと続く中央道路開削工事では、延べ1,200人の受刑者が投入され、工事の進行にともない、休泊所を解体しては移動していきました。別名「動く監獄」と呼ばれ、後の厳しい監視と強制労働で知られる一般労務者の飯場 (たこ部屋)のつくりは、これを模したといわれています。

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網走刑務所職員官舍

この宿舎は、拝命されたばかりの看守が与えられた最も狭い間取りの9坪 (29.7㎡) の官舎です。現在でいう 1LDK です。家族が生活するための最小限の生活用品が置かれています。階級が上がると少し広い音舎に移ることができました。煮炊きは「かまど」で、内風呂はありません。瓦屋根は北海道では少ないのですが、刑務所の窯で瓦を焼いていたので官舎には屋根に瓦を使用しています。176戸の官舎が並んでいましたので、監獄の中にあっても官舎の周りだけは、子どもの賑やかな声が聞こえ別世界のようでした。

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​網走刑務所裏門(有形文化財

この門は網走刑務所赤煉瓦門塀製作開始の大正8年に一番最初に着工した門です。その 後5年かけて受刑者がこつこつ煉瓦を積み上げ大正13年に延長1,080mの赤煉瓦塀を 完成させました。以来平成5年の9月まで70年間にわたり網走刑務所裏門として受刑者が塀の外の作業場 (農場・養豚場等) に出かける時に通るのがこの門であり、いかつい正門とは違い、この門をくぐり抜けると外に出られるという、受刑者にとっては解放感を味わえる門だったことでしょう。 老朽化のため門を建て直す際に、博物館網走監獄が譲り受け復原致しました。

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時間がなくて、途中から駆け足になってしまった。

監獄歴史館の資料や動画も見る時間がなかった。

もっと時間に余裕をもってもういちど再訪したい。

ホテルのチェックイン予定時間を17時にしていて、夕食付だったので、急いでホテルに向かう。

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