おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.5万円、在宅勤務のハケン社員になりました

松前城・開陽丸とホテル万惣日帰り温泉

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来月のフライトは欠航にならなかったが、緊急事態宣言中ということで無料で払い戻しや振替ができるようになっていた。

こういう状況なのでどうするかは書くまでもないだろう (-ω-)/

前日に楽天経由でニッポンレンタカーで車を予約しておいた(6,000円)。

うっかり車の写真を撮るのを忘れたが、利用明細を見ると車種は「ライズ」と書かれている。

礼文島に行ったとき、給油口をあけるボタンがついてなくて探しまくった車だ。

立待岬

この地名は、アイヌ語のヨコウシ (待ち伏せするところ。 すなわち、ここで魚を捕ろうと立って待つ)に囚むという。18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。また、第二次世界大 戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。

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天気が良ければ下北半島が見えるとのことだが、曇っていて見えず。

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石川啄木一族の墓と書かれた杭が立っていたので、ろくに確かめもせずに写真を撮って、ブログを書く段になってよく見ると、全然違う名前が書かれてる 💦

石川啄木一族の墓は、杭の右側だったみたい・・・。

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その隣には宮崎郁雨と砂山影二の歌碑が刻まれている。

昨日行った函館市文学館に石川啄木が書いた借金メモが残っていたが、一番多く借りていたのが、宮崎郁雨からで150円(150万円相当)も踏み倒していた。

今でいうと、啄木は芽が出ない芸人みたいなもんか。

「わがいのちこの海峡の浪の間に消ゆる日を想ふ-岬に立ちて」と詠んだ砂山影二は19歳の若さで青函連絡船から投身自殺をしている。

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与謝野鉄幹・晶子の歌碑もあるが読めないのでググって調べた。

「浜菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土」寛

「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと」晶子

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函館山

夜景が有名な函館山

結局、このとき来ただけで、夜は毎日山頂に雲がかかっていて夜景が見えない状態だったので来なかった。

札幌の藻岩山でも霧で夜景が見れなかったな。

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白神岬

函館から海岸伝いに西へ西へと向かう。

白神岬は北海道最南端の岬で、青森の竜飛岬まで192kmの距離。

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ごらんあれが竜飛岬・・・って見えないか。

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わずか5分ほど車を走らせたところにある「白神岬展望広場」までくると急に青空が広がっていた。

北海道の天気って少し離れただけでずいぶん変わるな。

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松前城

今から約七〇〇年以前の鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終り頃には和人政権の拠点となり、その後、武田信広(松前家始祖)がコシャマインの戦(一四五七)を平定し、蛎崎家を継ぎ、その子光広(松前家二世)以降代々福山館ができるまで大館に城を築いていた。五世慶広の時、松前氏に改め、幕府より蝦夷地における支配権を認められ松前藩が成立。
十七世崇広が徳川幕府から北辺警備の命を受け、高崎藩の市川一学の設計により安政元年(一八五四)に日本最後の旧式築城として完成したもので、約七万六千平方メートルを有する堂々 たる城郭であった。特に城内に砲台を備え、一見簡素に見える天守閣も、火器戦争には最もがん丈な意匠構造で、従来の日本式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。その背景には、ロシアの南下など外国船の日本侵略を防ぐ目的があって、松前城は北辺警備の 重大な役割を果たしていた。

昭和24年に木造天守が焼失し、昭和35年に鉄筋コンクリート製の天守が再建された。

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松前城資料館(天守閣)と松前藩屋敷のセット入場券(620円)を購入。

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入口の近くにピンクの百合に似た花が咲いていた。

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茎と花だけで、葉っぱがない!

調べるとナツズイセンという、ヒガンバナ科の植物らしい。

最初みたとき、葉っぱがないから、誰かが地面に挿した造花かと思った。

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《 桐章 》
文禄2年(1593) 松前慶廣が豊臣秀吉に謁見した際 に拝領したものと伝わっています。 もともと聚楽第にあり、 拝領後は福山城の本丸表御殿に取り付けられていましたが、 御殿の解体後、松前神社の宝物となりました。

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昭和24年に木造天守が焼失し国宝を解除されたのち、残った本丸御門は重要文化財になった。

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福山城本丸表御殿玄関
慶長十一(一六〇六)年に完成した城は当時これを福山館と称していた。しかし、寛永十四(一六三七)年城中より出火し、多くの建物を焼失、同十六年これを修業した。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。明治八年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門、表御殿は残った。表御殿は松城小学校として充用され、明治三十三年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和五十七年まで利用されてきた。

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二重太鼓櫓跡からは海が望める。

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松前藩屋敷

松前は幕末には8千戸、3万人の人口があり、仙台以北最大の都市だったそう。

ちなみに今はわずか6千人ちょっと。

その江戸時代の松前を再現した松前藩屋敷。

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商家(近江屋)

どの家屋も靴を脱いで上がれる。

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侍はちょんまげを結って変な髪型だとは思わなかったのかな。

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私の部屋より狭い、庶民が住む長屋の民家。

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松前屏風の写には栄えていた当時の様子が描かれている。

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ニシン漁をおこなっていた漁家。

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江戸時代は、大阪から日本海側を通って北海道まで北前船と呼ばれる船で交易がおこなわれていた。

当時の船では太平洋側を渡るのは困難だった。

大阪から北海道まで、春に出発して秋まで、冬になって海が荒れる前の約210日以内に往復していた。

また蠣崎氏の家紋は丸に割菱で武田の分家だから。

以上は、商家土蔵(民芸松前杉)の店主が話してくれた。

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武家屋敷

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武家屋敷の裏に曲がったら忍者の人形がいてびっくりした。

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松前藩松前墓所

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法源寺山門
法源寺は福山城の北方、寺町に位置する曹洞宗の寺院である。若狭の僧、傳心随芳が松 前氏の始祖武田信廣を訪ねる航海中に奥尻島に漂着し、その地で文明元年(一四六九)に庵を結んだのをおこりとする。その後、延徳二 年(一四九〇)に信廣の迎えにより上ノ国勝山に寺地を移し、以後は武田氏(後の松前氏)の居城の推移とともに、寺地を変え、十七世紀 前期には現在の福山城下に移った。

山門は、南面する境内の正面に位置する。細部の意匠から十七世紀に遡る建築と推定さ れ、慶安二年(一四六九)に火災の記録がある ことから、それを大きく降らない十七世紀中期の建築と考えられる。山門・経蔵ほかの建物は明治維新の戦乱の際に焼失し、その後再 建されたものである。
法源寺山門は、北海道の寺社建築として現存する最古の類に属し、つくりも良い。虹梁、頭貫の渦・若葉の文様や蟇股の彫刻等の細部意匠に特徴があり、松前地方の古い時代の建築様式を知るうえでも貴重で、北海道の近世 寺社建築を代表する遺構である。

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松前神社

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開陽丸記念館

開陽丸は1865年(慶応元年)海軍力の強化に迫 られた徳川幕府が、オランダで建造させた当時と しては抜群の性能を持った軍艦です。
開陽丸は鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜の大阪脱出に活躍する等、倒幕軍にとって驚異の存在になりました。
榎本武揚の品川脱出 (1868年8月) に際しては、咸臨丸、回天丸ら7艦を率いて脱出、蝦夷地に向 かい、箱館戦争の緒戦を有利に進めました。しかし、松前藩の最期の拠点として抵抗する江差を、海上から攻略しようとして暴風雪にあい、江差沖 合で座礁明治元年11月沈没してしまいました。これは榎本軍にとって大打撃で、翌年政府軍は津軽海峡を渡って反撃を開始、陸上で激戦を繰り広げましたが、榎本軍は五稜郭の戦いで降伏し、箱館戦争に終止符を打ちました。
排水量 2590トン
最大長 72.80メートル (バウスピリットを含め、 81.20メートル)
最大幅 13.04メートル
速力 
10ノット (汽走時)
標準装備 大砲26門 (うち18門は16センチクルップ砲) 後に9門が追加され35門になった、 外に小型ブロンズホーウィツェル砲など標準裝備
乗員数 350~500人

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入場料500円。

誰もいなくて館内貸し切り状態。

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海底から引き揚げられたスクリューシャフト。

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「寝ています おこさないでください」

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海底から引き揚げられた砲弾がここだけでなく、船内にいっぱい積まれている。

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くるみ割りって、日本人はあまり食べる習慣がないような。

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日本史上初の蒸気軍艦同士の海戦は、1868年(慶応4年) 1月 4日、1日だけの出来事であった。幕府艦隊旗艦開陽丸と薩摩藩の軍艦春日丸、運送船翔鳳丸の間に行われた壮烈な砲撃戦であった。
この海戦で開陽丸は25発 春日丸は18発をそれぞれ発射したが、致命的な被害はお互い無かった。春日丸は快足を利して逃げ切り鹿児島に向かい、翔鳳丸は由岐浦に逃れたが、岸に乗り上げ自焼してしまった。

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かもめ島

開陽丸記念館の後ろにある島で昔は「弁天島」と呼ばれていた。

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海の中に鳥居がある「瓶子岩(へいしいわ)」

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島に沿って海の上に遊歩道がある。

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島の上は草刈りされていて広っぱになってる。

テントを張ってキャンプしてる人もいた。

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「弁慶の足跡」

この凹んだ部分じゃなく、もっと潮が引いたときに足跡のような2つの大きな穴が現れるらしい。

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開陽丸記念館が見える。

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海岸まで下りて行こうかと思ったが、めちゃくちゃ天気がよくなって汗ダラダラ状態になったのでやめとく。

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「キネツカ台場跡」

松前藩によって沿岸警備のための砲台が設置されたそうだが何も残ってない。

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鴎島灯台

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渡島(おしま)半島を横切って東側の観光地も行く予定だったが、観光していたらレンタカーの返却時間の午後7時に間に合わないと思ったので、直接、函館に戻ることにした。

ホテル万惣 日帰り温泉

車を返却して、そのまま路面電車湯の川温泉のホテル万惣へ。

温泉に寄るつもりだったので、あらかじめ着替えもリュックに入れておいた。

ホテル万惣の日帰り入浴は平日は1,250円だが、土日祝祭日は1,800円。

だから日曜の昨日は別のホテルに行った (-ω-)/

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ホテルのホームページに大浴場の見取り図があって、いっぱいお風呂があるので、3つのホテルの中で一番期待してた。

でも、この見取り図、男女の大浴場が一緒に書かれてるので、実際には入れるのは半分、私が行った日は右側半分だけだった。

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ホテル公式HPより

1階にあるので、露天風呂は全く眺望なし。

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ホテル公式HPより

とりあえず、ほとんどのお風呂に入るけど、いつもサウナと水風呂に入っている時間が一番長い。

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ホテル公式HPより

ラッキーピエロ

夕飯は根室花まる、昨日の店とは別の塩ラーメン、ラッキーピエロの三択。

夜のライトアップされた赤レンガ倉庫を見たいなと思ったので、路面電車湯の川温泉駅から十字街駅まで乗ってラッキーピエロに行くことにした。

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レンガ倉庫の前にあるマリーナ末広店は、Googleマップでは22時30分に閉店なのに、20時前にもう閉まってた!

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近くの昨日食べた同じベイエリア本店は空いていた。

他の店が閉まっているせいか、店内は割と混んでいた。

チーズバーガー、エッグバーガー、オリジナルラキポテ、コーラーを注文(1,584円)したら量が多すぎた。

綺麗に揃えて撮らなかったのでなんか汚いけど、味は問題なし!

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腹ごなしにホテルまで歩いて帰る。

かつての青函連絡船摩周丸が博物館になって停留している。

自分がかつて乗っていた汽船なら懐かしいので乗ってみたいけど、縁もゆかりもない船なので別に観光したいと思わない。

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