おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.5万円、在宅勤務のハケン社員になりました

斎場御嶽と勝連城跡

午前中の観光の続き。

zhizuchangle.hatenablog.com

 

奥武島(大城てんぷら店)

橋を渡ったところにある「中本鮮魚てんぷら店」は車が停めにくかったので、もう少し先にいった「大城てんぷら店」に行く。

テーブルの上に置かれているてんぷら名が書かれている用紙に必要な個数を書いて受付に渡す。

さかなは好きじゃないのでパス。

いか、アーサー、もずく、うむにー(紅芋泥)、紅芋の5点購入(500円)。

うむにー(紅芋泥)、紅芋がめちゃ美味しかった。

てんぷらはイモとか南京が好き。

奥武島(龍宮神)

海岸に降りていく階段の方向に矢印が書かれていて、海岸であたりを見回したけど神社らしきものは何もない。

この岩が龍宮神らしい。

いちおう、なんか祭壇っぽくてリンゴが置いてある。

神社みたいなのがあると思ってたので拍子抜け。

斎場御嶽(せーふぁうたき)

御嶽(うたき)というのは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽琉球開闢伝説にもあらわれる琉球王国最高の聖地である。
御嶽の中に6つのイビ(神域)があり、琉球国王はこの六カ所を参拝しながら、国家繁栄、五穀豊穣、航海安全などを祈願した。
国家的な祭事には聖なる白砂を「神の島」久高島から運び入れて御嶽に敷き詰めた。最も大きな行事が聞得大君(「最も名高い神女」の意で琉球の信仰における神女の最高位の呼称で王族の女性が任命された)の就任式である「御新下り」でした。

駐車場の前の「がんじゅう駅・南城」で斎場御嶽を紹介した動画が放映されているので、見てから観光したほうがためになる。

入場券も「がんじゅう駅・南城」で買う(300円)。

2020年8月に知念岬にきたときは、沖縄限定の非常事態宣言で閉まっていた。

zhizuchangle.hatenablog.com

久高島遥拝所

琉球王国の絶対的な存在である国王はまさに太陽であり、その太陽のあがる方向にある久高島は東方楽土ニライカナイへの「お通し(遥拝)」所として沖縄各地で崇拝されています。

左手に平べったい島が見えているのが久高島?

御門口(うじょうぐち)

斎場御嶽の入口で、神社でいえば拝殿にあたる所です。琉球最高の御嶽ゆえに、ここから入場できるのは王府関係者に限られていました。右側には、御嶽内にある六つの拝所を示す香炉が置かれ一般の人々はここで御嶽の中に向かって拝みました。

大庫理(ウフグーイ)

首里城正殿の二階は大庫理と呼ばれ、祭祀的な機能を持つ格式の高い場所です。聞得大君のお新下り儀式での「お名付け(霊威づけ)」儀礼が、首里城と同じ名前を持の場所でとり行われたのは、その名にふさわしいことと言えましょう。前面にある磚(せん)敷きの広間では、神女たちが聞得大君を祝福し琉球王国の繁栄を祈りました。

首里城と同じ名前がついた拝所があるのは斎場御嶽だけで、それだけ重要な聖地だったとVTRで言ってた気がする。

寄満(ユインチ)

寄満とは首里城内にある建物の名前で、国王のために食事を作る厨房を指します。当時、ここには国内外からの海幸山幸が集まりました。それが、「豊穣の寄り満つる所」と理解されていったのでしょう。同じ名前を持つ斎場御嶽のこの場所には、第二次世界大戦前まで、その年の吉兆を占う馬の形をした石(うまぐわーいじ)が量かれていました。

なんかパワースポットから聖なるパワーを受けてる感じがする🐽

岩肌を覆う木の根っこ。

すさまじい生命力を感じる。

1945年の沖縄戦において、「鉄の暴風」と形容されるほどの砲弾が撃ち込まれ、終戦直後は沖縄本島内至るところに艦砲穴といわれる砲弾でできた穴が残っていたが大半の艦砲穴は埋められるなど残っていない。そのため、沖縄戦の様子を伝える戦争遺跡として保存している。

説明書がなければ、ただの水たまりにしか見えない。

アマダユルの壺(手前)とシキヨダユルの壺(奥)

二本の鍾乳洞から滴り落ちる「聖なる水」を受ける二つの壺。

それぞれを一つのイビ(神域)とカウント。

持ち出せないようコンクリートで埋められてしまってて風情がない。

三庫理(サングーイ)とチョウノハナ

自然岩や洞穴に囲まれたこの場所には、いくつもの拝所が集まっています。正面に見える三角形の空間の突き当たりが三庫理(さんぐーい)、右側がチョウノハナの拝所で、いずれも首里城内にある場所と同じ名前を持っています。また、左側からは太平洋と久高島が遠望できます。
さて、三角岩の右側には、「貴婦人様御休み所」と二本の鍾乳石が見えます。滴り落ちる水はその下に置かれた壷に受けられ、それぞれが中城御殿(国王の世子)と聞得大君御殿の吉兆を占うとともに、お正月の若水とりの儀式にも使われる霊水でした。

世界遺産だけあって修学旅行らしき学生がいっぱい。

手前に柵があって入れない。

2021年4月に香炉が持ち去られる事件があったのはチョウノハナっぽい。

持ち去られ事件があってから柵が作られたのかな。

勝連城跡

「中城城跡」と「座喜味城跡」も回るつもりだったけど、「勝連城跡」に着いたらすでに4時過ぎ。

近くの「あまわりパーク歴史文化施設」に駐車して入場券(600円)を購入。

展示や動画を見てから、勝連城跡まで無料の電動カートに乗せていってもらえる。

勝連城跡は、勝連半島にある標高約98mの小高い丘に築かれた東西に細長いグスクで、五つの曲輪からなり、各曲輪の城壁は琉球石灰岩の切石を使って曲線状に築かれています。丘西側の最も高い曲輪が一の曲輪で、その東側に二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪と階段状に低くなり、東の曲輪は再び高くなっています。
出土遺物は豊富で、中国産の陶磁器が多量に出土しているほか、東南アジア産の陶磁器類、朝鮮の磁器、大和系の瓦が出土しており、日本や中国、東南アジアと貿易をしていたことが発掘調査によって明らかにされています。これらの出土品から、12~13世紀に築城されたと考えられています。
琉球最古の歌謡集である「おもろさうし」には、勝連を日本本土の鎌倉にたとえた歌謡をはじめ、繁栄していた様子を示す歌謡が数多く残されています。
丘陵上に築かれたグスクは、北は金武湾を囲む北部の山々やうるま市の島しょ地域の島々が見え、南は知念半島や中城湾、世界遺産の中城城跡が一望できる景勝地となっています。
勝連城跡は、昭和47年(1972年)に国指定史跡に指定され、平成12年(2000年)に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、首里城跡などとともにユネスコ世界遺産に登録されました。昭和52年度(1977年度)から保存整備事業により城郭内の整備が行われ、現在も城壁の石積み等の整備が進められています。

勝連城の各曲輪を結ぶ石階段は、城壁に沿うように右側から旋回して上る構造になっています。これは、敵軍による侵入を防ぐ工夫と考えられています。
階段を急勾配にすることにより侵入者の体力を消耗させ、さらに右手側城壁より攻撃を加えることで、敵軍の機動力と攻撃力を弱める効果があります。また、敵軍による攻撃のアプローチを制限できること、高い場所から相手の兵力を確認できることなどの利点もあります。

三の曲輪

三の曲輪ではこれまでの調査の結果、時代の移り変わりの様子がわかりました。古い時代は掘立柱の建物が建ちならび、表面に粘土を貼ったすり鉢状の遺構も中央部で見つかっています。これは水を貯める施設ではないかと考えられています。新しい時代になるとこの三の曲輪全体が二の曲輪に建っていた殿舎建物と一対をなし、儀式などを執り行う広場に変わっていきました。その後、城が滅んでからは祭祀の場として使用され、中央西側に「肝高の御嶽」。その近くに神人たちが祭祀の際に休憩する「トゥヌムトゥ」と呼ばれる石列などが遺されています。

二の曲輪

舍殿跡

正面約17m奥行き約14.5mの、やや長方形の舎殿跡が発見されました。この建物は首里城正殿のような柱の多い構造で、礎石のあるしっかりとした造りであったことが分かっています。勝連城の城郭内で、最も重要な建物であったと考えられています。舎殿が建てられた時代、屋根は板葺きが主流でしたが、周辺からは大和系瓦も発見されていることから、「瓦葺きの建物であった」という説もあり、勝連の栄華が偲ばれます。

ウシヌジガマ

「ウシヌジ」には「身を隠し、凌ぐ」という意味があり、このガマ(自然洞穴)は「身に危険が及んだ時に逃げ込む場所であった」と言われています。1458年、首里王府軍によって攻め入られた際、難攻不落とされた勝連城も最後は力尽きてしまいました。この洞穴は一の曲輪「玉ノミウヂ御嶽」の洞穴と繋がっており、城主である阿麻和利は、ここを抜けて現在の読谷村まで逃げ延びたという伝説が残っています。

ウミチムン(火の神)

「ウミチムン」とは「三個のかまど石」を意味する言葉です。琉球古来の信仰で、火の神が祀られています。この信仰は現在も続いており、沖縄の各家庭では台所に「火の神」を祀り、家内安全を願う風習が残されています。また、藪地島浜比嘉島、久高島、津堅島など、神話を残す周辺の島々を、遙かに拝む場所でもあります。

本土でもかまどを祭る風習はあるので一緒だ。

一の曲輪階段は、敵軍による侵入などの勝連城有事の際の、“最終防御ライン”としての役割を担っており、城内に攻め入った敵が一挙に侵入できないよう、上るにつれて階段幅が徐々に狭まる構造となっています。また、石積みに沿わせた道から敵の横腹を突いて撃退する仕組みなどの様々な仕掛けにより、少ない兵力でも敵軍と互角に戦える工夫が見られます。

一の曲輪

玉ノミウ

勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽です。ここでは、村の繁栄が祈願されていました。霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には、建物の基礎に利用されていたとみられます。発掘調査により、かつてこの曲輪には宝物殿のような建物があったことが分かっています。また、霊石脇にある洞穴は「かつては二の曲輪のウシヌジガマと繋がっており、有事の際の避難路として使用されていた」という伝説が残されています。

沖縄の御嶽って、何の変哲もない岩とかが多くて、パワースポットに全然見えない。

曇り空で悲しい😢

天気がよければ海中道路を渡りたいところだが、こんな天気じゃ行ってもしゃあない。

二の曲輪、三の曲輪が見下ろせる。

勝連城跡 - Insta360

四の曲輪には、泉がいくつかあった。

ミートゥガー

かつてこの泉が、男女の逢瀬の場であったという伝説から「縁結びのカー(泉)」と伝えられています。女性が自由を制限された時代でも、水汲みは外出する口実になりえたのでしょう。一方で「この泉のそばで恋物語をするな」という言い伝えもあります。ここで結ばれた男女が別れると、どちらかに不幸が起きると信じられていたからです。泉は命の源や聖域であることから、困難があっても添い遂げよという教えなのかもしれません。

ウタミシガー

「ウタミシ」はお試し、「カー(ガー)」とは泉を意味する沖縄の言葉です。旧暦元旦の初拝みの際に、水の量によって一年の豊作・凶作を占うことから、「ウタミシガー」という名前が付いたと伝えられています。この泉の水量が豊富にあるときは「サーイ年(不作の年)」、水が少ないときは「ユガフーの年(豊作の年)」と言われています。

あふれるぐらいいっぱいだから凶作?

仲間ヌウカー(カンジャガー)

12世紀から15世紀前半のグスク時代、この地域の鍛冶屋(カンジャー)であった「仲間家が使用していた泉である」という伝説から、「カンジャーガー」とも呼ばれています。周辺の発掘調査で、鍛冶屋跡は現在のところ発見されていませんが、仲間家先祖は安全な場所を求めて、鍛冶屋の場所を替えながら武具の製作や修理を行っていたと言われています。

帰りはケチらずに高速道路を通って帰る。

給油して車を返却、バスで空港まで送ってもらって、モノレールで市内に帰る。

お食事処 みかど

今回2回目の来訪。

料理を順番に食べていく。

当店おすすめ料理の「なすと豚肉のみそ煮」(800円)。

味付けがしっかりしてて美味しい。