おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.5万円、在宅勤務のハケン社員になりました

南大東島 半日では自転車で周りきれず

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3時過ぎに南大東島空港に到着。

ゲストハウスに迎えにきてもらって荷物を置いたら、レンタサイクルで観光に出かける。

午後から雲が出てきて、明日は悪天候かもしれないので、周れるだけ周る。

海軍棒プール

南大東島には、海岸を掘ったプールが2つある。

東側の空港に近いのが「海軍棒プール」。

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海岸まで急な坂を下りていく。

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北大東島の「沖縄海」より一回り大きい。

やはり大波に洗われているけど「沖縄海」ほど泡立ってなくてつまらない。

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日の丸山展望台

昭和の初期、南地区青年団がこの山を集団活動の拠点とし、日の丸の旗を掲揚して一日の活動の合図としたことから、日の丸山と呼ぶようになったもので、 戦時中は電波探知機部隊の陣地として、島の防空に重要な役割を果たした。​​​海抜63メートル、展望台からは幕林に囲まれた環礁丘陵地帯の全景が一望でき、 また、はるか北方に北大東島を見渡すことができる。

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戦時中に軍施設の跡だろうか?

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北大東島と同様、サトウキビ畑が一面に広がっている。

南大東島北大東島も海岸部が高くなっていて、中央が少し低い盆地になっている。

ゲストハウスのオーナーから、中央部はできるだけ横断せず、円周部を周ったほうがよいとアドバイスをもらった。

Wikipediaによると「南大東島北大東島は環礁が隆起した隆起環礁であり、中央部に礁湖の跡である明確な凹地が形成されている」とのこと。

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塩屋プール

島の西側にあるのが、もうひとつの「塩屋プール」。

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坂を下りた先がプールになっているようだが、こちらも波が高くて近づけない。

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坂の右手も段状になっていた。

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塩屋プールに続く道にはハイビスカスが植えられていて色んな色の花が咲いていた。

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北大東島より一回り大きいし、昨日より1時間遅いので、島を半周したところで日が傾いてきた。

残りは明日回ることにして、島の中心部を通ってゲストハウスに帰る。

中央部

ふるさと文化センターの前のポールW・キャラウェイ中将像。

第三代琉球列島高等弁務官ポールW キャラウェイ中将は1961年 (昭和36年)2月16日に就 任し、1964年 (昭和39年) 7月までの3年6ヶ月という歴代高等弁務官の中で最も長期にわた って在任した。その間1962年にケネディー新政策に示された日米協調路線に対しても同意できず沖縄の現実に即した米国主導による沖縄の民生の向上と経済発展を主政策に掲げて琉 球経済の基盤固めのために腐心した。すなわち日本企業の沖縄進出を許すことなく、離日政策を強行する一方で、沖縄県民の自治権拡大に対しても関心を示すことなく、金融界の体質 改善や改革に思い切った敏腕をふるって高い評価を得た。就任して間もない1961(昭和36年) 6月には南大東村に行政視察のため訪問され両大東村の土地問題を米琉合同土地諮問委員会での審議を命じ、法律家で自らも弁護士の資格をもつ同弁務官は、その裁定に大きく影響 を与え、島民の長年の悲願であった土地所有権の確立に多大の貢献をされた。米国アーカンソー州出身で部下からは仕事の鬼と評されながらも、その反面キャラウェイスマイルで多 くの県民から親しまれた。1985年 (昭和60年)12月13日、 心臓病により、米国ワシントンのウォ ールターリード陸軍病院で逝去された。享年79歳であった。このたび南大東村開拓百周年を 記念するにあたり、この地に胸像を建立して末長く顕彰する。

沖縄占領下の独裁的な政治家だったが、大東島では農民の土地所有権問題を解決したので感謝されているようだ。

ふるさと文化センターは5時に閉まるので明日にする。

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南大東島村役場

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月見公園の池

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秋葉神社

木に囲まれた参道が続いている。

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歩くと結構な距離がある。

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社はなくて小さな祠があるだけ。

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シュガートレイン線路跡

最後にもう一ヶ所、頑張って、シュガートレイン路線跡を見に行く。

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南大東島は、大正六年から昭和五十八年まで、蒸気機関車・ガソリン機関車・ディーゼル機関車の製糖工場専用鉄軌道がありました。島内で栽培収穫されたさとうきびを各所に在る集積場で貨車により製糖工場へ運び込むための鉄道であり「南大東島シュガートレイン」と呼称した。又、さとうきびを運搬する貨車と別に客車もあり、主要な港からの貨車で生活物資などを集落内まで運搬、客車は島民の交通手段としても利用された。残念ながら、南大東島シュガートレインは現在は活躍する姿は見るよしも在りませんが、南大東村ふるさと文化センター隣に蒸気機関車・貨車・客車が保存展示されており、平成十九年十一月三十日に「地域活性化に役立つ近代化産業遺産」として経済産業大臣より認定された。島のさとうきび作農業製糖業は歴史背景の中で他の地域で例を見ない時間で近代化を成し遂げたが、近代化産業遺産は現代・現在に生きる我々に島で近代産業の発展に尽くした先人達の歩みを伝え、これからの将来未来の地域活性化に向けての活力を与えてくれる貴重な財産としなければならない。近代化産業遺産が有する価値の普及保存、継承を図ることは地域活性化に大変重要なことであり、有意義である。この場所は南大東島シュガートレイン(線路)軌道跡・一周線(北線)九号集積場の跡であり、景観保存に努めて伝えるものである。

昭和58年ということは、私が高校の時だから、そんなに昔の感じがしない。

さっき中将像を見た「ふるさと文化センター」に蒸気機関車があったらしい。

気が付かなかった 😣

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ゲストハウスに戻って、シャワーを浴び、オーナーが持ってきてくれたお弁当を食べて寝る。

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