おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.5万円、在宅勤務のハケン社員になりました

島原 原城跡と有馬キリシタン遺産記念館

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原城

8時前にホテルをチェックアウト。

島原城は9時オープンとあったので、先に原城跡を見に行く。

駐車場は「原城温泉 真砂」の裏手にあって、原城跡まで少し離れている。

原城は慶長4~9年(1599-1604)頃にキリシタン大名有馬晴信(1567-1612)によって築かれた城郭とされています。宣教師の記録によると、有馬氏本城の日野江城が手狭で先頭に不向きであったため、新たに巨大で堅固な原城が築城されました。
城は有明海につき出す丘全体を縄張りとし、本丸はじめ二ノ丸、三の丸、鳩山出丸、天草丸などの曲輪があります。本丸は石垣づくりで直線的な稜線の曲輪となっています。一方、他は自然地形を活かした土づくりの曲輪が並立的に配置されるなど、中世城郭の名残がある構造となっています。元和2年(1616)、大和五条より入封した松倉重政が居城を島原へ移したため、原城日野江城は廃城となりました。
寛永14~15年(1637-1638)の島原・天草一揆では、度重なる飢饉や領主の弾圧に堪えかね、2万をこえる農民が蜂起し、最終的に廃城となっていた原城に籠城しました。一揆勢のほとんどがキリシタンでした。一揆は約4ヶ月の長期戦となりましたが、兵糧攻めの末、寛永15年(1638)2月末の幕府軍の総攻撃により鎮圧されました。一揆以降、、ポルトガル船の来航禁止、宗門改帳の作成が実施されるなど、海禁(鎖国)政策やキリシタン禁制及び領民の統制が強化されていきました。原城を主戦場としたこの戦いは、幕府の支配政策にも影響を与える大きな出来事でした。

《三の丸跡》 

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あたり一面原っぱ。

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長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産に登録されている。

世界遺産が乱立しすぎてて、今まで何ヶ所行ったかもう覚えてない。

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《二ノ丸跡》

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《ホネカミ地蔵》

島原・天草一揆終結(1638)より130年ほど後の明和3年(1766)、北有馬村願心寺の住職注誉上人と南有馬村の庄屋乙名らが、原城跡に残されていた遺骨を敵味方の区別なく拾い集め、供養した地蔵塔です。石碑の正面には「三界万霊乃至平等 南無阿弥陀仏 骨塔 明和三戊七月十五日」とあり、側面には願主の名前が刻まれています。

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《虎口》

私が訪れたときはまだ開いてなかったが、案内所でタブレットを借りて、アプリのVRで当時の建物の様子が見られるらしい。

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《埋門跡》

原城本丸に入って中ほどに位置する2つ目の門跡です。一揆の後、幕府軍によって壊され、埋められていましたが、発掘調査で土砂や壊された石垣の石材を取り除いていくと、本来の石積や階段、水路の跡などが確認されました。

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近くにあった墓碑みたいなのは説明なし。

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《本丸門跡》

原城本丸へと繋がる最後の門です。入口の空間へ入ると建物の基礎となる礎石が並んでおり、櫓門が建てられていたと考えられます。櫓門を抜けるとその先に階段が設けられており場内へ続いています。他の門跡と同様に一揆後に破壊され、礎石の一部がなくなっており、階段の踏石はわずかしか残っていません。

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《本丸跡》

本丸とは城郭の中枢となる最も重要な場所です。本丸の曲輪は約8千㎡と広大であり、さらに城の北西側には本丸の守りを固めるため、桝形が連続する複雑で巨大な出入口(虎口)の空間が備えられていました。出入口の空間には本丸正門や本丸門など礎石建物を伴うもんがあります。また本丸の西側には櫓台があり、東側には搦手である池尻口門などがあります。
原城本丸は島原・天草一揆の際、総大将の天草四郎など指導者層が立てこもり、最後まで籠城戦が行われた場所でもあります。一揆後は再び籠城の拠点とならないよう、幕府軍によって建物や石垣が徹底的に破壊され、地中に埋め尽くされていました。本丸の調査では戦いの凄惨さや一揆勢の信仰心を物語るよう、多くの傷ついた人骨や、十字架・メダイ・ロザリオ珠などの信心具も出土しました。

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《櫓台跡(天守台跡)》

ここでは発掘調査によって大きく張り出した石垣の跡が発見されました。調査時には石垣の上部や隅が大きく破壊され、土砂や石垣の石材で埋め尽くされていました。宣教師が残した報告書には三層の櫓が建てられていたことが記されており、築城されたときにはこの場所に天守相当の建物があったと推定しています。

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一揆勢が海に面した原城に籠ったのは、ポルトガルの支援を待ち望んでいたという説もあるが、反対にポルトガルと敵対していたオランダ艦船からの砲撃を喰らう。

一揆勢にしたら、味方が現れたと思ったら敵だったって、心理的にきっついと思う。

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天草四郎時貞の墓碑》

小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で、本名益田四郎時貞といい洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどと言われています。比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強したとありますが、詳細は不明です。
島原の乱に際し若干15歳という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。

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天草四郎像》

私の世代なら、天草四郎と言ったら、ジュリー、沢田研二でしょ w

天草四郎にしろ、香港の周庭(アグネス・チョウ)にしろ、反体制派にいいように祭り上げられて人生を棒に振ったと思うな (-_-)

二人を反面教師として学ぶべき教訓。

長い物には巻かれよ!

胳膊拧不过大腿!

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《佐分利九之丞の墓》

誰それ?

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《池尻口門跡》

原城本丸に入る三か所の門の一つで、発掘調査で門と思われる礎石やその両側の石垣、階段などが発見されています。他の門跡と同様、一揆後に幕府軍に破壊され、埋め尽くされていました。破壊の激しさを示すように階段の踏石は抜け落ちが目立ち、石垣は最大でも1.7mほどの高さしか残っていません。特に石垣の隅角は、両側とも根石1石のみが残る状況です。

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徹底的に破壊された石垣の跡。

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原城本丸の石垣は緩やかな勾配で、直線的に積み上げられています。石垣の目地を横方向に通そうとする意図がみられますが、石材が規格的ではないため、必ずしも徹底はしていません。石材に積まれる大きな石材(築石)には粗割石や自然石が用いられ、割り面や自然石の比較的平坦な面が石垣の表面となるよう積まれています。こうした積み方は近世初頭頃の城郭石垣の特徴をよく示しています。

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空堀跡》

築城より400年以上の歳月が経過し、自然崩落などにより大きく広がっていますが、一揆の様子を描いた絵図史料には、縦5間(10m弱)、横20間(39mあまり)と記したものが見られます。また空堀内部には小屋が立ち並ぶ様子を描いた絵図史料もあり、空堀の底にも一揆勢が所せましと駐留したと考えられます。

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駐車場への帰りは海沿いを歩くと、対岸の土地が綺麗な一直線の斜面になっている。

火砕流によって形成された地形だろうか?

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有馬キリシタン遺産記念館

原城を見たら記念館も見たくなった(300円)。

小さな記念館で、展示スペースは2ヶ所。

展示室1は16~17世紀の日野江城を中心としたキリスト教の繁栄を紹介、展示室2は島原・天草一揆に関する史料や出土品を展示。

左の女性は周庭(アグネス・チョウ)がモデル(嘘)

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キリシタン大名有馬晴信らによってヨーロッパに遣わされた天正遣欧少年使節の目的の一つが布教活動に必要な印刷機を持ち帰ること。

グーテンベルク印刷機を持ち帰り、日本人によってはじめて活版印刷が行われたそうな。

初めて知って勉強になった!

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有馬晴信像》

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原城跡を発掘調査して人骨がいっぱい出てきた様子。

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壷井家所蔵矢文(複製だけど撮影禁止)が展示されていて、過酷な暴政に耐え兼ねて一揆をおこしたと記されている。

壷井家って『二十四の瞳』の壷井栄か。

一揆に参加した島原の農民が皆殺しになって人口が減ったので、小豆島から島原に移民が行われ、このときにそうめん作りが島原に伝わったと、大学の日本史の授業で教わったっけ。

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原城跡から見つかった十字架。

宗教なんて信じるもんじゃない。

特に不安や病気を抱えているときに近寄ってくる宗教はろくなもんじゃない。

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この空撮写真が位置関係が分かりやすい。

①池尻口門跡、②本丸門跡、③櫓台跡

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思った以上に長くなってしまったのでいったんここまで。

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