おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、正社員から週休5日、日給5万円のハケン社員になりました

留萌までオロロンラインをドライブ

月曜日だけ晴れの天気予報だったので、レンタカーを予約しておいた。

まだ走ったことのない札幌から留萌までのオロロンラインをドライブすることにした。

ホテルの裏にあるバジェットレンタカーでレンタル(4,830円)。

公式HPより楽天トラベルを通したほうが安かった。

レンタカーなら赤でもOK!

明るい気持ちになるし、駐車場で見つけやすい。

道の駅 石狩「あいろーど厚田」

石狩川を過ぎたあたりから車が一気に減った。

道の駅でトイレ休憩。

創価学会の二代会長戸田城聖の生家らしい。

戸田城聖って誰?

雄冬岬

途中から前後に車が走ってなくて、快適なドライブ。

道路わきに「白銀の滝」がある(駐車場あり)。

少し北上して雄冬の集落から坂をのぼると「雄冬岬展望台」がある。

マイナーな展望台なのか誰もいなかった。

雄冬の集落が眼下に見える。

赤岩岬。

ここまで長いトンネルが何個もあった。

増毛駅跡・旧商家丸一本間家

増毛(ましけ)駅は、深川と増毛を結ぶJR留萌(るもい)本線の終着駅だった。

高倉健主演の映画『駅 STATION』のロケ地になったらしい。

鉄道の映画って『鉄道員(ぽっぽや)』かと思った。

2016年12月4日まで95年間使われていたらしい。

構内のタコザンギ(500円)がおいしいとGoogleマップの口コミ情報。

「風待食堂」という名前の観光案内所。

ここも『駅 STATION』のロケ地になったらしい。

こういうのは先に映画を見ておかないとなんの感慨もない。

呉服商に始まり鰊漁の網元、海運業、酒造業などを営んでいた豪商本間家の家が保存されている。

​​旧商家丸一本間家を建てたのは本間家の初代、本間泰蔵です。彼は佐渡の出身で、小樽で商売を学ぶと明治8年には26歳で独立し、増毛で荒物雑貨の店を始めました。ニシン景気で沸いた増毛町では仕入れた商品が飛ぶように売れ、泰蔵は事業を次々に拡大します。荒物雑貨から呉服商、ニシン漁の網元、海運業、酒造業など、彼は時代とともに多岐にわたる事業を展開し、天塩国一の豪商と呼ばれるまでになりました。事業の拡大と共に建家も増築していきましたが、現在も残る本間家は店舗・呉服・居宅・付属屋・醸造蔵などで構成されており、20年以上の歳月をかけ、明治35年に完成したものです。
平成15年に国の重要文化財に指定されました。

表通りに面した呉服店

奥帳場は天井にの明り取りの窓がしつらえてある。

茶の間

ここも映画のロケ地になったっぽい。

帰ったらAmazonで借りてみてみよう。

3階の客間

当時はさえぎるものがなく町全体が見渡せた。

でも、こんな急な階段を上がり降りしないといけなかった。

観光客で実際に滑ってこけた人がいるらしく、注意書きがしてあった。

「ボントン アイスクリーム製造器」

こんなんでアイスクリームが作れるのか???

所ジョージの番組で紹介された「開かずの金庫」らしい。

紙調琴(しちょうきん)
明治17年頃から発売された、リード式のオルゴールです。木箱の中にはリードとふいごが組み込まれており、楽譜となる紙を通してハンドルを回すと、穴の開いた場所の音階が鳴るよ うになっています。

千望台

留萌にある展望台。

留萌市特別功労者五十嵐億太郎の像とある。

留萌市街が一望できる。

海の向こうに利尻富士が見える!

見たらまた行きたくなるな。

黄金岬 波濤の門

夕日がきれいなスポットらしい。

夕日は見れないけど、海の向こうに雄大な雪山が見えた。

留萌から夕張に向かう。

オロロンラインと違って、滝川市から岩見沢市まで交通量が多かった。

夕張市石炭博物館

前に「幸福の黄色いハンカチ想い出ひろば」は行ったけど、「石炭博物館」は休館していて入れなかったのだ(720円)。

1874年(明治7)、アメリカ人鉱山地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンの探検隊が夕張川上流の地質を調査。その後、1888年(明治21)、道庁技師坂市太郎が士幌加別川上流で石炭の大露頭を発見したことで炭鉱の街、夕張の歴史が始まる。
北海道随一の炭都として栄え、一時は大小24の炭鉱、人口12万人を数えたが、1960年代に入ってエネルギー革命で次々と閉山、1990年(平成2)に最後の炭鉱が閉山した。
炭鉱に変わって夕張の顔となったのが観光で、かつての炭鉱跡地をりようして「石炭の歴史村」をはじめ、スキーリゾートなど大型リゾート施設、夕張メロンの生産など新たな街づくりを行った。
しかし、人口流出に歯止めをかけることはできず、観光振興などに対する赤字補填で財政が著しく悪化、2007年(平成19)財政再建団体となった。

日本の未来を先取り😬

石炭を掘るとメタンガスが出るらしい。

メタンは空気より軽くて、色もなく、臭いもないそうだ。

初期の炭鉱堀の様子。

炭鉱の中を馬が石炭を運んでいた時代もあったらしい。

日本でも百人以上の犠牲者を出す炭鉱事故が何回も起きていた。

ドラムカッターの実演がある。

解説をしてくれるのは、当時、炭鉱で働かれていた年配のガイドさん。

ドラムカッターで坑道と坑道の間の石炭層を砕いてベルトコンベアーで下に運ばれていく。

坑道と坑道の間を上から下まで数十センチの幅で砕き終わったら自走枠を右側に寄せる。

石炭を掘ったあとの岩盤はもろくて、自走枠がないとすぐに崩れてしまう。

自走枠をずらした後の隙間は岩が崩れてすぐに埋まってしまう。

ロードヘッダーは先端のドリルが回転して坑道を掘っていく。

これらの機械はすべてバラバラに崩して現場に持ち込んで人力で組み立てた。

一つの区間で石炭を取り尽くすと装置を解体して別の採掘現場に運んだ。

坑道と炭鉱堀の模型。

軽いメタンを上側に逃がすため、必ず二本の坑道がある。

下の坑道には送風機で強い風を送ってメタンガスが上の坑道に流れるようにする。

黄色いのが自走枠で、自走枠をずらすとその後ろ(左側)はどんどん崩れていく。

石炭が地表に露出している。

これが夕張石炭の発見につながったそうだ。

採炭救国坑夫の像
この像は、軍需生産美術推進隊彫塑班の二科会中村直人らと地元協力者によって、炭鉱産業に従事する人々の激励と慰問のために、昭和19年6月29日北炭夕張鉱業所前庭に建てられたものである。当時は、製作資材等が乏しいうえ、設備一つない屋外で、わが国彫塑界はじめての試みという現地製作に取りくんだが、何しろ大塑像(3.63m)を一週間で、しかもコンクリートによって作るだけに非常な苦心であった。
戦後「進発の像」と呼ばれ、炭都夕張のシンボルとして市民に親しまれ、技術的にも美術的にも価値あるもので、昭和60年12月現在地に移転したものである。

模擬坑道は2019年4月に発生した坑道火災のため見学不可。

残念。。。

天龍坑坑口跡
明治33年(1900)、夕張鉱第三斜坑として開発された。大正7年(1918)「天龍坑」と改称。夕張炭鉱の坑口名は坑内火災を避けたいという思いから河川名を使用しており、この坑名も天龍川からとったもの。昭和13年(1938)には、161人の犠牲者を出すガス・炭塵爆発災害が発生した。

前回のドライブでは、レンタカーの返却時間に間に合わないかと焦って猛スピードで帰ったので、今回はこれで切り上げて早めに帰る。

やはり札幌市内に近づくと渋滞していたが、6時過ぎには帰ることができた。