
人民大礼堂の向かいが「三峡博物館」。
入場料は無料だが、実名制で登録する必要があるので、事前に微信から申し込んでおいた。
マイナンバーカードを使いこなせない高齢者は医療機関で資格確認書を使用できるらしいが、中国でも高齢者は情弱なので、65歳以上の高齢者は身分証で入場可となっていた。
博物館は撮影禁止のほうが数行でまとめられていいな・・・。
なまじっか写真撮影可能なんで、写真を撮って後から解説を読んでいるので時間がかかる。
どうせならガイドがいて、ポイントの展示だけ説明してくれるほうが楽でいい。
重慶は国民党が臨時政府を移した場所なので、抗日関係の展示を楽しみにしていた。
4階建てで抗日戦争の展示は3階にある。

壮麗山峡展廳
1階から順番に見て行く。
旧石器時代から近代に至るまでの三峡地域の文物を展示している。
最初にでかいパノラマ画面で山峡の成り立ちを説明していた。

巫山玉米洞遺址は旧石器時代から新石器時代にかけての重要な先史時代遺跡で、約40万年前から8000年前にかけての人類活動の痕跡が明らかになった。
三峡って山ばっかりで平地が少なそうだけど、大昔から人が住んでたらしい。



三羊銅尊
商代(約前1600~前1046年)
銅尊は酒器であり、同時に巴蜀地域の青銅時代に流行した中核的な礼器でもあります。この尊の本体には雷文を地紋とし、主文様として夔紋と獣面紋があしらわれ、肩部には三つの羊の頭部装飾が付いています。これは重慶地域でこれまでに発見された中で最も古い時代に属する大型青銅容器であり、夏・殷(商)の時代に中原文化が三峡地域へと伝播した歴史的事実を物語っています。

铜虎钮錞于
戦国(前475-前221年)

鳥形銅尊
戦国(前475~前221年)

雁形銅尊
西漢(前206~25年)
雁は縁起がいい動物で身分秩序や礼節を守る象徴だったそう。

銅牵馬俑及銅馬
東漢(25~220年)
この馬の像は、頭・首・胴体・脚・尾などの各部を別々に鋳造し、後に一体として組み立てられたものです。馬の体つきはたくましく、気品があり、漢王朝の威風堂々たる雰囲気をよく表しています。一方、馬を引く人物は穏やかな表情で、微笑をたたえ、心の平静さがうかがえます。

巴郡朐忍令景云碑
東漢(公元25-220年)
東漢時代の地方官・景雲の功績を称えた内容です。
碑の上部は円弧形をしており、中央に女性が門を開く像、左右に鳳鳥と薬を持つ仙兎の浮彫があります。碑の側面には、左に青龍、右に白虎が彫られ、正面は雲気文様の縁取りに囲まれた内部に隷書で十三行・全367字の銘文が刻まれています。
内容は、前半が景雲の家系や経歴を記述し、後半は彼の徳行を称える賛辞と、若くして亡くなったことを惜しむ哀悼の文です。
この碑は、三峡地域における最も重要な東漢碑刻の一つとされ、学術的・芸術的価値が高く、「西南漢代第一碑」との評価も受けています。

亜鉛は、明・清時代において貨幣鋳造の重要な原材料でした。三峡地域は、中国古代の亜鉛精錬業の発祥地の一つとされており、この地域では明代中後期から清代中期にかけての亜鉛精錬遺跡が数十か所発見されています。
三峡の水運を活かして、明・清期にはこの地で産出された亜鉛製品が大量に北京へ運ばれ、加工や輸出に用いられました。

三彩陶俑
宋(960-1279年)
奉節は宋代の夔州路の行政中心でした。この奉節県から出土した一連の三彩俑には、四神像・文官像・武官像・墓を守る像などが含まれています。
これらの陶俑は、黄色や緑の釉薬がかけられ、鮮やかな色彩と生き生きとした表情が特徴で、当時の生活感が濃厚に表れています。それは夔州府のかつての繁栄を物語るとともに、宋代三峡地域の多様な社会生活や、墓の主の道教信仰を生き生きと伝えています。

秦良玉
重慶忠州出身。明末から清初にかけて活躍した著名な女性将軍。幼い頃から武術を学び、勇気と知略を兼ね備えていた。成人後、石柱の宣撫使であり土司(地方領主)でもあった馬千乗と結婚し、夫の軍務を助けて「白杆兵」と呼ばれる精強な地方武装部隊を育成した。夫の死後はその職務を継ぎ、社会が混乱する明末の時期、皇帝の命で「白杆兵」を率いて北上、瀋陽近くの渾河での激戦から山海関の守備に至るまで数々の戦功を立てた。その功績により、朝廷からは「誥命夫人」、さらに太子太保(皇太子の師)を加授され、「忠貞侯(忠義を尽くした侯爵)」に封じられた。

銅製関羽像
清代(1644年〜1911年)
高さ270センチメートルで、かつては渝中区の較場口関帝廟に祀られていましたが、1959年に重慶市博物館に移されました。

白鶴梁水文題刻
白鶴梁題刻は重慶市涪陵区の長江の中洲、城北に位置しています。ここには唐の広徳元年(763年)から現代までの165段にわたる石刻の記録が刻まれており、約1200年間の72年分の歴史的な干ばつ水位を記録しています。これは長江中上流域の水文規則や航運、産業の研究に重要な資料を提供しており、世界的に有名なエジプトのナイル川水位標と同じような機能と価値を持っています。

この「白鶴梁水文題刻」は中国語の教科書で習った。
三峡ダムが建設されて長江の水位が上昇したため今では川底に沈んでしまったが、その川底の遺跡をみるため「白鶴梁水下博物館」という博物館ができた。
教科書で習っても朧げに覚えているだけで、場所も定かじゃなかったが、こうして実物を見たら「白鶴梁水下博物館」にも行きたいなと思う。


牧童花卉文方形石製水缸
清代(1644年〜1911年)
石製の水缸は巴蜀地方の民間でよく使われた生活用品で、裕福な家庭では水缸の表面に美しい吉祥模様を彫刻し、主人の豊かな生活への願望を表現していました。この方形の水缸の正面には、牧童が牛に乗る様子、牡丹の花卉、宝瓶などの文様が彫られており、「田園の野趣」「花開く富貴」「平安無事」などの意味を持ちます。

三峡にゆかりのある有名な詩人、李白、徒歩、白居易、屈原のどれか3人の像(忘れた)。

太陽人石刻(複製品)
新石器時代(約8000〜6500年前)
石板に簡潔な線で描かれた巫師と太陽の図像。人像は中央に位置し、体の両側には新しい超星服の装飾があり、頭上には23本の光芒を持つ太陽の模様が付いている。これは現在、中国で最も古い太陽崇拝の図像であり、約6000年前のもので、三峡地域における先秦時代の風俗信仰の盛んさを示している。

大梁岩画
漢代(紀元前206年〜220年)
元は重慶雲陽県巴陽峡にあり、三峡ダム建設のために切り離されて重慶中国三峡博物館に移された。石板には陰刻で集落(または楼船)、倉庫、巫師、魚幡、錞於(古代の武器)などが描かれており、巫師が祭事を行う様子を反映している。画面は素朴で自然な雰囲気を持ち、原始的で神秘的な空気に満ちている。

重慶城市之路
2階の常設展。
重慶が直轄市に昇格するまでの100年間に焦点をあてたエリア。
重慶は、長江と嘉陵江が合流する地点が中心街として発展してきた。

花轿
喜轿や彩轿とも呼ばれ、一般的な形は四角四方で、宝塔のような屋根がついています。大きさは約一尺六寸四方、高さは六尺以上で、寸や分の数字も縁起の良い「六」という数字に合わせられています。轿の壁の周囲には精巧な花模様の板があり、麒麟が子どもを送る姿、龍と鳳凰の吉祥の図柄、八仙が海を渡る様子など、美しい祝福を込めた絵が描かれています。これは清末から民初の裕福な家で使われていた私的な花轿です。
人が入るにはとても窮屈そう。

北川鉄道の蒸気機関車
北川鉄道は1928年に建設が始まり、1934年3月に全線が開通しました。全長は33華里(約16.5km)で、駅は全部で11か所ありました。これは重慶、さらには中国西南地域で最初の専用の石炭輸送鉄道です。
日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、この鉄道は「天府炭鉱専用鉄道」と改称されました。そして1943年10月、天府炭鉱の技術者たちによって蒸気機関車の試作が成功しました。この機関車はすべて国産部品で構成されており、「新中国の機械製造の先駆け」と称されました。
14年に及ぶ抗戦期間中、この蒸気機関車は合計で220万トンの石炭を輸送し、重慶の鉄鋼業や軍需産業を支える重要な役割を果たしました。

銅元局ワニ型剪断機
「銅元局」は1905年に創設され、重慶で初めて、光緒帝の勅許により白銀200万両を投じて設立された官商共同経営の企業です。1913年5月に正式に操業を開始し、主に銅貨や銀貨を製造していました。
国民政府が重慶に遷都した後、この銅元局は軍政部兵工署の管理下に置かれ、「第二十兵工廠」と呼ばれ、中国国内で最も先進的かつ最大規模の銃弾製造拠点となりました。建国後には「長江電工工場(現・長江電工厂)」に改称されました。
この剪断機は1911年にアメリカ・オハイオ州で製造されたもので、銅元局が最初に導入した設備のひとつです。

銃弾組立機(枪子装配机)
ドイツ製。
銃弾製造ラインの一部で、雷管を装填済みの薬莢、弾丸、火薬を組み合わせて完成した銃弾を作るための機械です。1875年(清の光緒元年)、上海の江南製造局が「龍華銃弾工場」を建設した際に導入された設備です。

蛇年に関する特設展
灰陶操蛇镇墓俑
灰色の陶器で作られた、蛇を操る姿をした墓を守る埋葬用の人形。
古代の墓に安置され、魔除けや死者の守護を目的とした陶器の人形の一種と考えられる。


玄武は中国の四神の一つで、北方の守護神。
亀と蛇が組み合わさった姿で表されることが多い。
防御や長寿の象徴としても知られています。

抗戦歳月
もう脚が痛い。
抗日戦争(1937–1945)中の重慶の歴史と文化を多角的に紹介したエリア。
《前言》
中国人民抗日戦争は、中国人民が日本帝国主義の侵略に対抗した正義の戦争であり、世界の反ファシズム戦争の重要な一部である。また、近代以降、中国が外国の侵略に抵抗して初めて完全勝利を収めた民族解放戦争である。中国人民抗日戦争の勝利は、中華民族が再び力を取り戻す重大な転換点となった。
1931年の「九・一八事変」以降、局所的な抗戦が始まり、抗日救国運動が徐々に高まった。1937年の「七・七事変」以降、全面的な抗戦に突入した。中国共産党は全民族の抗戦の中心的支柱であった。この勇敢で屈しない反侵略戦争の中で、重慶は中国の戦時首都であり、中国共産党中央南方局の所在地で、抗日民族統一戦線の重要な政治舞台でもあった。また、世界の反ファシズム戦争における中国戦区の指揮本部も置かれ、抗日戦争および世界反ファシズム戦争の勝利に大きな歴史的貢献を果たした。
戦時首都
1937年7月7日、盧溝橋事件が勃発し、中国全民族による抗日戦争の幕が開けた。四川軍は次々と出征を願い出て、戦場の最前線へと向かった。淞滬会戦での敗北や南京の危機という厳しい情勢の中、国民政府は1937年11月20日に《国民政府移駐重慶宣言》を公式に発表した。
その直後、白山黒水(中国東北)から黄河両岸、中原の大地から蘇州・杭州の海沿い地域、江漢平原から嶺南・珠江地域に至るまで、数千万の同胞たちと、政府機関、鉱工業企業、商業・金融機関、高等教育機関、文化団体、研究機関などが続々と重慶を中心とする中国内陸の後方地域へと移転した。
これにより、重慶は戦前はただの省に属する普通の都市だったが、一気に中国の「戦時首都」へと昇格し、長江上流の商業都市から、抗戦後方の政治・軍事・経済・文化の中心地へと成長した。
右寄りは、日本が戦ったのは共産党じゃなく国民党で共産党には負けてないとかツッコミを入れそうだけど、政権に関係なく中国に負けた事実に変わりはない。
今も負けて経済侵略を受けてるけど、武力侵略よりずっといいよね🐽

四川軍将軍・郭勋祺が前線で鹵獲(ろかく)した日本の桜花戦刀。

抗戦時期、中国の豚毛(猪鬃)の生産量は世界総生産の半数以上を占めており、豚毛の輸出は戦時中の外貨収入の重要な源であった。
写真は本部を重慶に置いていた「四川畜産貿易株式会社」である。同社が生産した「虎牌(とらマーク)」ブランドの豚毛は、当時の全国総輸出量の85%を占めていた。

抗日戦争時期の日本軍が、戦争開始を記念して作った小さな磁器のカップ。
でも、左上のは日露戦争記念と書かれている・・・。

日本軍の軍刀。

アメリカ軍の無線機。
中国駐印軍および中国遠征軍はアメリカと協力して、2,400キロメートル以上進軍し、50以上の都市を奪還し、13万平方キロメートルのミャンマー領土を解放、さらに8.3万平方キロメートルの雲南西部の失地を回復しました。

中国と連合国の新たな連絡ルートを構築するために、中国とアメリカは共同で、インドの汀江(ディンジャン)から昆明までの空中輸送路線、すなわち有名な「ヒマラヤ越え(駝峰)空路」を開設することを決定した。この「駝峰航路」の輸送任務は主にアメリカ空軍輸送部隊と中国航空公司が担った。写真はC-54型航空機が駝峰航路を飛行している様子である。

「日本軍(鬼子)による爆撃に注意せよ」と書かれている。

1939年5月3日、4日にかけて、日本軍は合計72機の航空機を出動させ、人口密集地であり商業が栄える重慶の中心市街地を連続して爆撃した。日本軍は爆弾と焼夷弾を組み合わせて投下する戦術を用い、街は焼け野原となり、数日間にわたり火が消えなかった。「五・三」「五・四」大爆撃では5000人以上の死傷者が出ており、重慶大爆撃の中でも直接爆撃による被害が最も大きかった。この写真は爆撃を受けた当時の重慶の様子である。
中国人にやったことをその後アメリカにやられたわけね😎

爆撃後の様子。

左側の写真は下半身が裸なので、別の抗日博物館で見たのを覚えている。
南京大虐殺記念館にも同じ写真が展示されているのだった。
使いまわしじゃなく、ちゃんと「重慶」と記されていた。

重慶会談
抗日戦争の勝利後、中国は二つの将来、二つの運命の選択に直面した。平和を求め、内戦に反対するために、毛沢東は民族の希望を背負い、国の安危を案じて、自ら重慶へ赴き、蒋介石率いる国民政府と交渉を行った。
1945年8月28日、毛沢東、周恩来、王若飛からなる中国共産党代表団は、張治中将軍とアメリカ駐華大使ヘルリーの陪同を受け、飛行機で重慶・九龍坡空港に到着した。8月28日から10月10日まで、談判は林園、桂園、中山四路の徳安里101号、103号で数回にわたり開催され、毛沢東と蒋介石の直接会談は8回に及んだ。
43日間の交渉を経て、国共双方はついに合意に達した。張治中公館である桂園にて、中国共産党代表の周恩来、王若飛と国民党代表の王世傑、邵力子が《政府と中共代表会談記要》に署名した。なお、この日は双十節であったため、この《会談記要》は「双十協定」として知られている。これは国共合作における重要な歴史文献であり、重慶会談の直接の成果である。
実際は成果はなくて、国民党と共産党の騙しあいだったけど。

1941年6月5日、第二次世界大戦中の日本軍による夜間空襲で、重庆市の較場口にある防空用の大隧道が激しく爆撃されました。この空襲で、多くの市民が避難していた防空壕が密閉された状態となり、酸素不足により窒息する悲惨な事故が発生しました。この「較場口防空大隧道窒息惨案」は死傷者が非常に多く、国内外に大きな衝撃を与えました。


漢代彫刻芸術

龙虎画像石柱
東漢


車馬出行画像石棺
東漢
石棺の長さは2.18メートル、幅は0.6メートル、高さは0.54メートルです。
石棺の右側には車馬での出行の図があり、前方に伍長らしき二人、先導する騎手がおり、後ろには三人の騎乗した役人がいます。その中の最初の人物は「金吾」という役職の人物で手に何かを持っています。画面上部には逆さまの「山」形模様、柿の軸模様、串銭模様、そして「双結龍」というシンボルなどが描かれています。

楽舞百戯画像石棺
東漢
石棺の長さは2.13メートル、幅は0.72メートル、高さは0.6メートルです。棺の蓋は長さ2.13メートル、幅0.73メートル、高さ0.3メートルです。
棺の左側と右側の画像はそれぞれいくつかの区画に分けられており、区画は上部約3分の1のあたりで上下2段に分かれています。左側には鳳凰、、菱形の連続模様(連璧紋)、仮面を持つ羽のある人(羽人)、盾を持つ羽人などの図案があります。右側には仮面を持つ羽人や短刀を持つ羽人などが描かれており、これらは音楽や舞踊、百戯(様々な芸能)の場面と思われます。

アニメっぽい彫刻。


説唱石俑
東漢

こちらは鼓を持っている。

灰陶女厨俑
東漢
豚の頭のようなものが載っている。

楽舞俑

方相氏と漢代葬儀礼制
方相氏は、中国古代の民間信仰における祓魔師の役割を持つ存在で、特に傩(のう)儀式や葬儀において重要な役割を果たしていました。

明器(冥器とも呼ばれる)は、故人とともに埋葬されるために作られた器物のことで、新石器時代にはすでに出現していた。西周時代の礼器中心の随葬品に比べ、漢代の墓では地主階級の荘園生活を反映した一連の明器が形成されている。これには陶俑のほか、現実の動物や器具、家屋を模した模型明器が含まれる。
模型明器の流行は、「事死如事生」(死後の世界も生前のように扱う)という当時の葬送観念と密接に関係している。漢代の社会では富を求め享楽を重んじる風潮があり、その影響で模型明器は実際の権力者や富裕層の生活を忠実に模倣し、死者の魂がそれを享受できるように作られた。

動物の焼き物。




揺銭神樹
摇钱树は巴地区の漢代から三国時代にかけての墓葬でよく見られる器物です。
一般に「樹身)」と「樹座(台座)」の二つの部分に分かれ、樹身は主に青銅製の葉片で作られています。特徴的な装飾には、五珠線や硬貨の模様、西王母の図像、さまざまな神や動物、植物の文様があり、これらの器物は「摇钱树」と呼ばれています。樹座は多くが土で焼かれたもので、西王母や仙人が羊に乗る姿、牛郎織女、娘蜍、辟邪など多彩な題材の彫刻が施されています。
この「摇钱树」は、当時の人々の祈福と財産繁栄の願いを反映していると同時に、神と人、天地を結ぶ「神木」としての役割も持っていた可能性が高いです。




西南民族民俗風情
重慶は中国の西南部に位置し、多くの少数民族が暮らす多民族地域なので、これら西南民族の生活様式や伝統文化、風俗習慣を紹介するエリア。
苗族の刺繍

侗族の刺繍入り男性用ベスト

鼓楼は侗族の村落に特有の象徴的な建築物の一つですで、侗族には「村を建てるならまず楼を建てよ」という言い伝えがある。

水族の衣装は主に青や藍色が多く用いられる。

「鸡冠帽」は、彝族の分派である撒梅族の伝統的な衣装の一つ。

白族は白を尊ぶ民族で、服装も白色を最も高貴な色としている。

東巴教は、ナシ族が信仰する原始宗教であり、その祭司のことをナシ語で「東巴」と呼ぶため、この宗教は「東巴教」と名付けられました。「東巴文字」は、ナシ語では「木と石のしるし」という意味を持つ、象形・表意文字です。ナシ族がかつて使用していた独特な文字体系です。

「十二相面具(仮面)」とその舞踊は、四川省南坪の白马藏族の地域に広く伝わる伝統芸能です。
この仮面の造形は、チベット文化の十二支を主なモチーフとし、そこに地元に特有の鳥獣(飛禽走獣)などが加えられています。



歴代銭幣
中国最初期の貨幣は、貝貨で、後に青銅製の刀幣、布幣、円形の貨幣(円銭)などが登場、戦国時代や秦・漢の時代に広く流通しました。


半両銭
半両銭は、もともと秦国によって鋳造された貨幣であり、戦国時代の円形銭の一種です。始皇帝は六国を統一した後、それぞれの国で使われていた旧貨幣をこの半両銭に統一し、その地位は絶対的なものとなりました。秦が滅び漢が興ると、漢朝は秦の制度を受け継ぎ、西漢(前漢)初期には依然として半両銭を用いていましたが、やがて漢の武帝の時代になると「五銖銭」が鋳造されるようになりました。

唐代には「開元通宝」が鋳造され、以後「通宝」や「元宝」の名を持つ貨幣が多く登場しました。

明代の貯金箱。

中国銀行の紙幣。

1931年から1945年にかけて、日本軍は占領地域において傀儡政権を支援し、合計で8つの銀行を設立しました。これらの銀行は150種類以上の紙幣を発行しました。その中でも特に重要なのが、
などです。これらの紙幣は植民地的色彩が強く、侵華勢力による金融独占の手段となり、抗日戦争下の中国経済を破壊し、中国の資源や富を掠奪する道具となりました。

第一套人民元は1948年12月1日に発行が開始され、1955年5月10日に流通を停止しました。流通期間は約7年で、現在のところ流通期間が最も短い人民元のセットです。
現在は第五套人民元(1999〜)。

歴代書画・歴代瓷器
もうゆっくり見る気力なし。
青釉堆塑人物五联瓷罐
西普

湘阴窑青釉瓷武吏俑・文吏俑
唐

青白釉瓷
北宋時代に景徳鎮で初めて焼成に成功しました。青白釉は、釉薬の中に少量の鉄分を含み、還元(酸素の少ない)環境で焼き上げることで、青色と白色の中間に位置する釉色を持つ陶磁器の一種です。

德化窯 何朝宗款 白釉観音瓷坐像
明代

乾隆款 黄釉暗雲龍紋磁盤
清代乾隆年間の銘がある、黄釉に暗い雲龍文様が施された磁器の皿。
故宮博物院より調達・移管。

海水雲龍紋珐琅罐
清代


民国拓清萧星拱重刻涪州石鱼记拓片
涪江の石魚は波の底に刻まれており、現在は豊作の象徴とされている。何千何百年もの間、盛大な出来事として伝えられている。康熙乙丑(1685年)春の正月、水が引くと魚が再び現れた。二か月ほど前を振り返り、仲間と共に観に行くと、まるで双魚と黄蓮が隠れて跳ねているように見えた。しかし長い年月の風化で形がぼやけてしまい、ほとんど判別できなかった。そこで石工に命じて刻み直させ、記憶が消え去らぬようにし、豊作を願う永遠のしるしとした。

現地ではぼんやり見ていただけだけど、ブログを書きながら、一方で調べて理解がより深まった気がする(すぐ忘れるけど)。
もうChatGPTとDeepSeekは必須。
特に、中国関連はChatGPTはときどきデタラメを教えるけど、DeepSeekはかなり正確で信頼できる。