「プラーン ケーク」まで来たとき、「プラ・ナーラーイ・ラチャニウェート」の敷地内にある「ナーラーイ国立博物館」に行くのを忘れていたことに気づいた。
道を引き返して博物館に行く。
美術館も博物館もどっちもよく理解できないけど、博物館の展示を見るほうがずっと楽しい。
展示は二つの建物。
左の建物の1階から回ると時系列になってる。
なぜか日本語が書かれた自販機。
奥には1856年、モンクット王の治世に、王に同行した女官の住居が建てられた。2列に8棟の建物がある。当時は男子禁制だった。
石の鹿。
ドヴァーラヴァティー(6世紀ごろから11世紀ごろまでに存在したといわれるモン族による王国)は小乗仏教(今はもう言わないんだっけか)が主要な宗教だった。
ドヴァーラヴァティーはインド文化の大きな影響を受けていて、仏教、特に仏教美術をこの地域に紹介するうえで重要な役割を果たした。
ドヴァーラヴァティー土着の信仰
仏教の影響を受けるまえ、悪魔祓いなど土着の信仰を持っていた。
子どもに授乳する像がある。
タイの歴史時代の文化は、6世紀から7世紀にかけてタイ中部を中心に始まり、宗教(バラモンと仏教)を通じてインド文化の影響を受け、地元の信仰、習慣、伝統と組み合されてドヴァーラヴァティー文化が花開いた。
長さ1200m、幅800mの楕円形の墳丘の東から様々な土器、石斧、青銅や鉄で作られた道具、人骨、銅精錬のスラグ、シャコガイの貝殻で作られた装身具などが発見された。
人類が3800年前から1000年前までの長い期間、この墳丘上に居住していた。
先史時代(約3500~1000年前)の人間の埋葬
漆喰の獅子の頭(西暦11~12世紀)
ヴィシュヌ神(西暦7~8世紀)
2階の展示。
砂岩を用いたクメール美術の鴨居(西暦10世紀初)
クメール美術の仏頭(西暦12世紀)
象に乗るインドラ(インド神話の軍神)のビルマ芸術の鴨居(10世紀)
アンコールワット様式の仏像(12世紀)
ナーガの頭巾を冠をかぶった仏陀、クメール美術(12世紀)
ナーガの冠をかぶった仏陀、クメール美術(12世紀)
ナーガの冠をかぶった仏陀、クメール美術(12世紀)
仏陀の立像、クメール美術(13世紀)
ジャヤーヴァルマン7世(13世紀前半)はクメール王朝初の仏教徒の国王で大乗仏教を信じた。13世紀半ばにクメール王朝が衰退するとロッブリーは独立国家としてタイ中部の政治の中心地になった。その後、人々は大乗仏教から小乗仏教(上座部仏教)に変わった。
ナーガに守られた仏、クメール美術(13世紀後半)
ドヴァーラパーラ(門番を意味する門衛神)(西暦13世紀)
マラヴィチャイの姿勢の仏陀(13世紀後半)
※マーラは、釈迦が悟りを開く禅定に入った時に、瞑想を妨げるために現れたとされる悪魔
プラーン・サームヨートで発見された仏像(西暦13世紀)
仏塔の上部に置かれていたアンティフィックス。
宝石で飾られた広間でマラヴィチャイ姿勢の青銅製仏像(13世紀)
青銅製仏塔(13世紀)
バイヨン様式のミニチュア仏塔で、クメールのプラサート(塔堂)の形をしている。仏塔の隙間には、典型的なバイヨン様式で、マーラを鎮圧する仏陀の姿が描かれている。仏塔上部は鐘の形をしていて、インドのパラ芸術の影響を受けている。
クメール陶器
ロッブリーで発見されたクメール陶器は、タイのクメール文化の典型で、特徴の一つは赤みがかかった茶色、茶色がかった黒、緑色など、さまざまな色の釉薬。瓶、杯、蓋つき瓶、水差し、小さな鍋などのほか、象、馬、ヤギ、兎、亀、魚などの動物の形をしたものもあり、宗教的な儀式や日常使用、輸出に使用されたと考えられている。
クメール陶器は中国製の影響を受けており、特に12~13世紀の中国の陶器と一緒によく発見される。
ガラス製の仏像。
ポッド・ドゥアン(タイの昔の通貨)
スコータイとアユタヤの時代からラッタナコーシンの第五治世まで流通していた。手作業で鋳造されていて、純銀と金の合金。
ラーマ四世(モンクット国王)
昔の国王より今の平民の方がよっぽど快適で恵まれた生活をしてると思う😄
ナーガに守られた仏像、ロッブリー芸術(14世紀)
ナコーン・コサ寺院で発見された漆喰の台座にマラヴィチャイ姿勢の仏像(アユタヤ初期15世紀)
アユタヤ時代後期、ナーラーイ王(1656~1688年)が第二の住居としてロッブリーを復元するまで、ロッブリーは重要な中心地ではなかった。1666年国王はフランスのイエズス会とイタリア人に、第二の首都として王宮「プラ・ナラーイラチャニウェート」の設計に協力するよう依頼した。
ナーラーイ王の時代、ロッブリーは政治、行政、経済、外国貿易において重要な役割を果たした。アユタヤ王がアユタヤから離れた場所に別荘を設けたのはこれが初めてで、事実上ロッブリーは第二の首都となった。1688年に王の死後、ロッブリーの重要性は再び薄れ、アユタヤ北部の都市にすぎなくなった。
彫刻が施された木製ドア(アユタヤ時代後期またはラタナコーシン時代、22~24世紀)
ワット・シンハラムから借用
巨大な💩の遺跡
右巻きになってて偉人の三十二相八十種好の一つらしい。
仏絵馬を飾るパネル(アユタヤ時代後期、17~18世紀)
これはすごい!小さな仏像がぎっしり詰まってる!
ステンドグラスで装飾された漆塗りのテラコッタ(アユタヤ時代後期、18世紀)
ラタナコーシン時代の剣
地獄から戻ったプラマライ像(ラタナコーシン時代、19世紀)
足元に餓鬼みたいなのが群がってる😨
見事な仏教絵が描かれたタンス
上にいくほど偉そう。
やっぱ、人間は平等じゃなくて上下関係だよね😎
別館の方に移動。展示は少ない。
ガラス漏斗つき燭台
恐らく19世紀後半のもので、元々はバンコクの皇太子の宮殿の道具だった。
タイにおける日本人
アユタヤ王は日本人がシャムに定住し、アユタヤ市の南にあるチャオプラヤ川のほとりにコミュニティを設立することを許可した。ナーラーイ王の治世中も王室護衛のために働いていた人もいた。
1681年に描かれたアユタヤのワット・ヨムの壁画は破壊されたが、1897年に描かれた複製には、王室の行列の一つに同行した日本の武士の列が描かれていた。
つるっぱげの一団が日本人か?
日本の陶器(17世紀頃)
寺院で経典を補完するために使われていたキャビネット(アユタヤ時代17世紀後半)
黒漆の上に金で描かれていて西洋人とイスラム教徒の二人が描かれている。おそらくフランスのルイ14世とムガル帝国のアウラングゼーブと思われる。当時、シャムとムガル帝国の間に密接な関係があったことを示す。