おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.7万円、半分在宅勤務のハケン社員になりました

マレーシア国立博物館でリタイアした方にガイドしてもらう

あるマレーシアに移住した方のブログで、マレーシア国立博物館で日本語のボランティアガイドがあることを知った。

毎週火・金・土曜日の午前10時から開催されている。

以前、バンコク国立博物館でも同じような日本語のボランティアガイドがあって、一人で見るのと違って、歴史や文化をわかりやすく学ぶことができし、しばらくあとまで記憶に残った(今はもう忘れたけど💧)。

前日、マレーシア・イスラム美術館に行ったけど、展示の説明が英語とマレー語で書かれていて、展示を見るだけだったので、すぐ忘れると思う。

zhizuchangle.hatenablog.com

Pasar Seni駅から、ブキビンタンに行くのに乗ったMRT Kajang Lineで反対方向に一駅乗ってMuzium Negara駅で下車。

博物館は駅を出てすぐのはずだったが、出口を間違えて南側に出てしまって、しばらく彷徨った💦

入場料は5リンギット(180円)とゲキ安。

正面ホールは日本の人形展をやっていた。

日本人ボランティアの人は2人いて、私は他の日本人旅行者2人組(一人は在住者と言ってた)と一緒に、男性のボランティアガイドについて回った。

なお、ブログを書くのが遅くなったので、記憶が曖昧になって、間違ったことを書いてしまうかもしれないけどご勘弁。

マレーシアは最後の氷河期のとき、海面が下がったことにより陸続きになってスンダランドという広い陸地になった。

マレー半島には石灰岩の場所が多く(サンゴが発達してたからだろうか?)、昨日訪れたバトゥ洞窟のように鍾乳洞が多くある。

ニューギニアやオーストラリアまでは繋がらなかったので、オセアニアでは固有の動植物が残った(ウォレス線)。

左から、アフリカの50万年前の人骨(どれも複製)。

二番目がサラワク州にるニア洞窟で見つかったマレーシア最古の4万年前の人骨。

三番目がクランタン州のチャ洞窟で見つかった8千年前の人骨。

そして一番右が現代人の人骨。

二番目も三番目も額が広くて、現代人の人骨に近い。

マレー半島北部のペラ川が流れるレンゴン渓谷で、「Perak Man(ペラ・マン)」という完全な全身骨格が発見された。

身長は約157cm、50代前後、約11,000年前のものと推定されている。

体育座りを仰向けにした姿勢で発見された。

レンゴン渓谷はユネスコ世界文化遺産に登録されている。

以下はガイドが始まる前に撮った写真なので、今となってはいつの時代の遺跡なのか不明😓

太鼓のように使われていたのか、儀式用に使われていたのか不明。

鉄器はすぐに錆びてボロボロになって残らないけど、青銅器のほうが残りやすいんだそう。

ベトナムでよく似た紋様の青銅器が発見されているので、マレー半島で作成されたのか、伝わってきたのかは不明。

初期の海上貿易は、西暦数世紀に東の中国と西の中東の貿易中継地としてケダ州が利用された。

毎年6月から9月にかけて南西の風、10月から5月にかけて北西の季節風に依存していた。

マラッカ海峡だけでなく、東西をつなぐ陸路の交易路もあった。

Kuala Mudaで発見された7世紀前後のマカラ。

マカラは、通常ペアで建物の正面玄関の装飾として使われた。

右側が象、左側が魚の鱗らしいが、全然わからない。

仏教も伝わってきた。

バラモン教も伝わってきた。

マレーシアの主要な交易品は香辛料で、スパイス諸島と呼ばれたインドネシアモルッカ諸島(マルク諸島)から持ち込まれた。

香辛料は、料理の味付けだけでなく、むしろ、肉などの保存としての用途において貴重だった。

マラッカ王国(1402年~1511年)はマレー半島南部に栄えた港市国家で、イスカンダル・シャー王はイスラム教に改宗した。

明の鄭和による大航海で、東西交易が盛んになった。

マラッカ王国は当初より中国に朝貢を行って友好関係を築いていた。

ケダ州からマラッカに交易の中心地が移ってきた。

なお、首都クアラルンプールは1850m年代末に付近で錫鉱が発見されて中国人が入植したそうで、中国系の比率が高く、都市としての歴史は浅い。

二階に上がると近代史。

ポルトガルに攻められて、1511年3回目の攻撃で陥落してしまう。

2回目の戦争の様子を表した絵で、このときはマラッカ王国が撃退に成功したと言っていた。

フローラ・デ・ラ・マール号は1511年にマラッカ攻撃を指揮したポルトガルの船。

大量の戦利品を積んで船出したが沈没してしまった。

マラッカを占領したポルトガルは要塞を築くが、その後、オランダにマラッカを奪われ、オランダによってサンチャゴ砦に1670年と刻まれた。

さらに、19世紀になるとイギリスの植民地となり、イギリスは要塞を破壊したが、サンチャゴ砦だけは破壊されずに、今もマラッカに残っていて、マラッカで一番有名な観光スポットになっている。

オランダ東インド会社の「VOC」マークの入った皿。

平戸オランダ商館でもVOCのマークが入ってたっけ。

zhizuchangle.hatenablog.com

「Bunga mas(黄金の花)」は、マレー諸国からタイのアユタヤ王朝に3年ごとに貢物として送られていた。

金と銀で作られた2本の小さな木らしいが、記録はあるが、現物は残ってないらしい。

マレー半島がイギリスの統治下にはいるまで続いたとのこと。

パンコール協約はイギリスのマラヤ支配のきっかけとなった協約。

1874年1月20日、ペラ州パンコール沖に停泊していたプルート号上で、スルタンの地位を保全するかわりに、イギリスの理事官を派遣して、マレー人の宗教と慣習以外のすべてについてイギリスの助言を求めなければならないとされた。

これにより実質的にペラはイギリスの統治下になった。

この方式は、他のマレー半島の小国にも広がって行った。

ポルトガルは交易のためにマラッカを拠点として占領しただけだが、イギリスは植民地統治を始めた。

もともとゴムは南米原産だが、東南アジアに持ち込まれて、プランテーション経営がなされた。

ゴムのプランテーションと並んで、マレーシアと言えば錫の生産地。

中学の時、「銅と錫のマレーシア」って習った気がする。

ボランティアガイドは1時間のはずだが、ここでもう1時間経過。

でもこのあと予定はないし、説明を聞くのは楽しいので続けてもらう。

1941年12月8日、日本がマレー半島に進撃を開始。

日本軍は自転車部隊だったらしい(知らなかった)。

イギリスが撤退前に行った「焦土作戦」により、食料、医薬品、日用品が不足した。

日本軍はマレー人、インド人に比して、中国人に相当ひどい扱いをしたらしい。

日本の統治期間は4年と短かったが、現地の人々に、植民地から国を解放する勇気を与えたと、本当かどうか知らんけど、説明には書かれている。

でもって、1957年8月31日、とうとうマラヤ連邦はイギリスから独立を果たした。

マラヤ連邦って初めて聞いたけど、マレーシアのボルネオ島を除く、マレー半島部分の州らしい。

このときは、ボルネオ島の州は含まれていなかったので、赤白の線が11本しかない。

今は14本。

マラヤ連邦の初代首相であるトゥンク・アブドゥル・ラーマンが、ムルデカ広場でイギリスの国旗を降ろし、マレーシアの国旗を掲げて、「ムルデカ!(独立!)」と7回叫んだそう。

このあと、時間がオーバーしているので、説明が大幅に省略された😂

個人的にはもっと聞きたかったんだけど。

1963年9月16日、シンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシアが成立。

これでマレーシアの旗は14本になるけど、後、シンガポールは独立。

やっぱ、説明してもらっただけあって、書くことがいっぱいあったし、勉強になった。

マレーシアは多民族国家

中国語のガイドが、シーク教徒は髪の毛を一生切らないので、バイクの着用を免除されていると言ってた。

今回のボランティアガイドされている男性は、リタイアしてクアラルンプールに移住された方だった。

マレーシアは多民族国家なので、差別もなく暮らしやすいとのこと。

「あなたもどうですか?」って言われたけど、リタイアしてるってわかった?

リタイア後の海外移住先として、タイやマレーシアは人気があったんだろうな。

日本円が暴落したこと、リタイアメントビザ「MM2H」の条件が厳しくなったことで移住者は減ってるらしい。

ブログ村セミリタイア生活カテゴリの上位にも、マレーシア移住して「ちゃん」付けで呼び合ってるちょっと○○いブログがあった気がする😆

また、子供の英語学習のために移住してくる人もいるとのこと。

日本語のボランティアガイドが終わったところで、2階の展示をもう一回ゆっくり見ようと思ったら、ちょうど中国語のボランティアガイドが説明をしていた。

中国語は10人以上の旅行者が参加していた。

ガイドはマレーシア華僑で、台湾に留学していたので、台湾訛があると自分で言ってた。

中国語の勉強を兼ねて、中国語ガイドについてもう一回説明を聞いた。

日本軍占領のところで、なんか悪口が出るかと思ったが、さらっと流してた。

これが大陸からのガイドだったら、旅順のツアーのときみたいに、思いっきり悪口を聞いてたと思う😎

zhizuchangle.hatenablog.com

KLセントラルに出てご飯を食べるか迷ったが、国家記念碑に向かう。