『日帰り山あるき関西』の全コースを制覇するため賤ヶ岳に登る。
- 09:00 余呉駅出発
- 09:20 岩崎山
- 09:40 大岩山(中川清秀の墓)
- 09:50 猿が馬場
- 10:20 賤ヶ岳
- 11:30 権現峠
- 12:00 神明山
- 12:15 堂木山
- 12:50 余呉駅到着
09:00 余呉駅出発
「余呉湖 観光館」から登る道もあるようだが、余呉湖に行く手前の道から登る。
Googleマップにも出てない小さな神社。
09:20 岩崎山
少し道をそれると岩崎山砦跡がある。
岩崎山砦跡
天正11年1583年賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉方の摂津高槻城主、キリシタン大名高山右近「当時重友」が合戦中期に秀吉の命を受けて築いた陣城である、柴田勝家方の佐久間盛政が岩崎山、大岩山を奇襲落城させた事実は当陣城の普請「工事」が未完成であつた事を如実に物語るものであろう。
また佐久間軍に攻撃されても右近は反撃せず、速やかに羽柴秀長の本陣田上山に退却合流している事からも、この陣城が如何に未完成な陣城であつたかが推定されよう。
砦跡といっても、何も残ってない。
言われなきゃわからない。
熊が出没するらしい。
ヒグマなら死ぬけど、ツキノワグマなら撃退できるだろうか。
09:40 大岩山(中川清秀の墓)
大岩山砦跡
天正11年(1583)羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った、賤ヶ岳合戦の前哨戦で、中川清秀は、大阪の摂津茨木衆三千人を引率したが、3月17日の秀吉の前線視察と指示により「兵五百人~千人」と諸書で兵員は異なるが、大岩山(標高約240m)に築城を開始した。4月20日早朝、勝家の甥、佐久間盛政が前線指揮し、大岩山を包囲殲滅、岩崎山を急襲し、二城を陥落させる。『小早川文書』に勝家の書状が残り、「敵の城二つ取る」とあり、西国に先制攻撃成功を宣言する。しかし佐久間盛政は大岩山一帯を占領し続け、秀吉の追撃を受けて敗北する。大岩山は賤ヶ岳、岩崎山の中間地点に築かれた、繋ぎの城で、賤ヶ岳城の様な堀切も無く、四時間で落城した、しかし地元では城山と呼ばれ、当時の土塁が歴然と残る。
中川清秀の墓
天正十一年(一五八三)の賤ヶ岳合戦において最初に戦のあった陣地である。柴田勝家の部下で行市山に布陣する尾山(金沢) 城主佐久間盛政は、夜影に乗じ集福寺坂より塩津を経て権現の峠を越えて川並に至り余呉湖の南岸を迂回して大岩山の砦を奇襲した。
この陣地を守る茨木(大阪) 城主中川清秀は奮戦よく頑強に抵抗したが、ついに全員壮烈な最後を遂げた。勝ち誇った佐久間の軍勢は柴田勝家の帰参の命に従わず余勢を駆って賤ヶ岳の砦に進撃し、戦勝に酔った。この報を知った豊臣秀吉は急遽大垣より駆けつけ(美濃の大返し) 余呉湖周辺での合戦となり、秀吉軍が勝利、柴田家滅亡の因となった。
ぶっちゃけ、誰それ?
中川清秀の遺体を洗ったと伝えられる湧き水がある。
倒木で覆われてる・・・。
賤ヶ岳までの道は、広くて、石ころもなく、勾配も緩やかで歩きやすい。
木に巻いてある青色のテープはなんだろう。
また、余呉湖の風景を横目に見ながら登るのだと思い込んでいたが、賤ヶ岳頂上に着くまで、ほとんどまったく余呉湖は見えない。
せいぜい木々の間からちらっと一部が見えるぐらい。
09:50 猿が馬場
猿が馬場
毒々しいマムシグサを発見。
見つけたらいつも蹴っ飛ばすと茎からぶっ飛んでいく😁
10:20 賤ヶ岳
やすやすと頂上(421m)に到着。
適当に撮って帰ってから調べたら、敗軍の将、柴田勝家だった。
ようやく賤ヶ岳頂上で余呉湖の全景が見えた。
琵琶湖方面も綺麗に見える。
頂上までリフトがあるようで、頂上だけはまあまあ人がいた。
『日帰り山あるき関西』に従えば、リフト方面に下りて、木ノ本駅に出る。
でも、まだ歩き足りないので、余呉湖周囲の山を一周することにした。
飯浦と書かれている方に進むとすぐに右に曲がる道がある。
このお地蔵さんが目印。
賤ヶ岳まで歩いてきた余呉湖西側は、休日はハイカーが多いと見えて、道が歩きやすいが、余呉湖東側は道の跡らしきものがあるのみ。
YAMAPの地図と所々枝に貼られたテープを頼りに進んでいく。
木々で景色も見えず、ただ歩くだけ。
11:30 権現峠
権現峠でようやく標識があった。
神明山方向に進む。
少し行くとお地蔵さんとまた標識があった。
余呉湖の景色は見えないし、退屈な道のりなので、もう余呉湖方面に下りようかと思ったが、反対側の神明山に続く道は舗装されていた。
やはり、せっかく来たから神明山にも行くことにした。
ところが、YAMAPの地図を見ると、途中でアスファルトの道からまた山道に入らないといけなかった。
目印がこのテープのみ。
YAMAPを使ってなかったら絶対わからない。
12:00 神明山
神明山砦
堂木山と同じ尾根の稜線上にあり、東野山砦、堂木山砦とともに秀吉方の第一防衛線として、蜂須賀彦右エ門尉、木村子隼人が陣していた。砦遺構が残っている。
神明山頂上に到着。
たしかに、土塁の跡が残っている。
余呉湖の北側でやっと開けた場所に出てきた。
東に進むと、堂木山砦跡がある。
ちょっと道に迷って落ち葉のところを歩いていたら蛇🐍に出くわした。
進んでた方向にいて全然気づかなかったので思わず叫んでしまった💦
12:15 堂木山
堂木山砦
東野山砦とともに、北国街道を挟み込む位置にあり、神明山砦と一体となり柴田軍の南下を防ぐ役割をしていた。ここには長浜城主柴田勝豊の配下で勝豊とともに秀吉に降り、長浜衆と呼ばれた山路正国、大金藤八郎が陣していたが、正国が柴田方へ内応し、行市山へ脱出したあと木下半右エ門が入った。砦遺構が残っている。堂木山から神明山への尾根には古墳(円墳)も残っており、余呉湖畔に古くから人が住みついていたことをうかがい知ることができる。標高283m
神明山砦跡同様、土塁の跡が400年以上たってもまだ残っている。
マムシグサを見つけたので、また蹴り上げたら、珍しく根元から飛んでいかずに、実だけが取れて坊主になった😲
さきほどの分岐に戻り、麓に下りていく。
途中、ススキが生い茂って道がない、歩きたくない場所があった。
西天神宮
西天神宮は現在菅原道真公を御神体としているが、もとは天の神を祭った中之郷の
元宮で、中之郷創始の頃よりあった。
中之郷は往古は余呉川の西方にあったが余呉川氾濫による被害のため、東側山麓の現在地に移転し西側山腹にあった本宮は西天神として残された。以来中之郷南頭講中の人達により護持されているが、御神体は今も二十五年毎に行われる開帳の折は、鉛練比古神社まで渡御される。
此の地方は天神信仰の厚い所で菅原道真公にまつわる伝説も多い。当社梅林の下には菅公の夜泣石がある。菅公幼き頃この石の上に置去りにされ泣いていたのを菅山寺の僧に拾われ養育されたと伝えられる。また後日菅原道真ここを訪れた時、岩の上で詩を書かれたと伝えられる菅公机岩も残っている。
上に続く道を少し上がっていくと、神社の台座だけ残っていた。
誰も訪れる人がいなくて遷座したのだろう。
田んぼの中を歩いて駅に向かう。
12:50 余呉駅到着
駅が見えたので、YAMAP終了。
実際は、駅に入るには大きく迂回しないといけない。
結局、余呉湖の湖畔には行かなかったな。
天女の衣掛柳
各地に残る羽衣伝説の多くは松の木だが、ここは柳の木。
数年前の台風で倒れたらしい。
ここで、次の電車が13時11分で、逃すと1時間に1本しかないことに気付く。
急いで駅に向かう。
ギリギリセーフ!
400mの山なので楽勝。
これならもう一ヶ所こなせそう。
近江富士か阿賀神社(太郎坊宮)か迷って、阿賀神社の山容が気になったので、阿賀神社に行くことにした。
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