火曜日まで八丈島にいる予定だったのに、前の週の木曜日に帰ってきて予定があいたので、『日帰り山歩き関西』をコンプリートするため天王山に登る。
前日夜8時から12時間も寝たので体が重い。
阪急大山崎駅を出発。
駅のすぐ「天王山ハイキングコース近道」と書かれた小径に入る。
JRの線路を越えると天王山登り口。
古来、大山崎は軍事、交通上の要衝として歴史上重要な役割を果してきました。その要の位置をしめている山が標高270.4メートルの天王山です。天王山は摂津国と山城国の境をなし、また西国と東国を結ぶ重要なポイントであり、山と川との間は最も狭い部分で200メートルたらずしかなくここを通らずして西へも東へも行けないという位置にあります。
古代、この山には名はなく、中世になって山崎山、そして山頂近くに酒解神社が建立されて牛頭天王を祭ったためそれから天王山の名が生まれました。しかしこの名が知られるようになるのは室町時代の応仁・文明の乱の時からで、地域的な重要性から天王山に城が築かれ、たびたび合戦が行われました。やがて最も知られている天下分け目の天王山「山崎合戦」が天正十年(1582)六月十三日、夕刻四時ごろ山頂、山麓で明智軍、羽柴軍との間で繰りひろげられました。やがて勝利をおさめた羽柴秀吉は天下統一をめざすため天王山山頂に天守閣をそなえた城を築城大山崎を城下町としたのです。
このような歴史をもつ天王山には今日数多くの神社仏閣、史跡等が残され、おとずれる者に歴史の重みを感じさせてくれます。中世の繁栄を今に受けつぐ離宮八満宮や宝積寺には数々の文化財があり近世の幕明けとともに建てられた妙喜庵内茶室「待庵」(国宝)は利休が建立した唯一の現存茶室として有名です。その他にも古代から近世に至る様々な歴史を秘めた天王山の探訪を心ゆくまで楽しんでください。
坂の突き当りに宝積寺がある。
豊臣秀吉が山崎の合戦の勝利を記念して一夜で建てたという言い伝えがあるらしい。
本堂。
お金を払えば中に入れるらしいが、あんまり興味ないのでパス。
閻魔堂
ここもお金を払えば閻魔王像が見られるらしい。
地獄の沙汰も金次第。
寺の東にハイキングコースが続いている。
しばらく坂を登ると広場があるが、展望はいまいち。
広場にでかいコンクリート製の壁があり、「秀吉の道」と題した絵巻が描かれている。
この時点では、なんでこんなところに絵巻が描かれているのだろうと思ってた。
高校で日本史習ってないし 😐
秀吉の中国大返し
天正十年六月二日(新暦1582年七月一日)未明、明智光秀は京都本能寺に織田信長を襲撃、近くの二条城に居た長男の信忠と共に討ち果たした。
その頃、織田家の有力武将は、遠く離れたそれぞれの持場で強力な敵と相対していた。羽柴(豊臣)秀吉ははるか西の備中(岡山県)にいた。秀吉は雑用人として織田信長に仕えて以来二十数年、機転と勇気で様々な手柄を立てて出世。五年前に強敵毛利家と戦う中国攻めの総大将に任じられてからは、才気とねばりで大きな戦果を挙げた。
天正十年五月、秀吉は、いよいよ毛利家に止めを刺すべく山陽の要衝、備中高松城を攻め、水攻めの奇策によって陥落寸前にまで追い詰めた。毛利方も高松城を見殺しにできず、全力を挙げて救援にきた。それを知った信長は、自ら出陣、一気に毛利勢を撃滅することにした。秀吉は、主君信長の天下統一が間もなく完成すると信じていた。
ところが六月三日の夜、その信長が京都本能寺におい明智光秀に殺害されたことを知らされた。光秀の使者が闇夜で道を誤り、毛利方に届ける書状を持って秀吉の陣に迷い込んだのだ。
秀吉は主君の死を悼んで大声を上げて泣いた。だが、すぐ次には直ちに上方に駆け戻り明智光秀と天下を賭けて戦うことを決断、夜明けまでに毛利方との和睦を成り立たせた。
翌五日を和睦の儀式や兵糧の撤収に費やした秀吉は、六月六日、中国街道を駆け抜け、二日後には約七十キロの姫路城に戻った。世にいう「秀吉の中国大返し」である。
季節は梅雨時、雨が降り続いて行軍は難渋したが、秀吉軍は姫路で軍備の点検に一日を費やしただけで東に進み、六月十日には早くも摂津の尼崎に到着した。
羽柴秀吉が瞬時にして下した的確な判断と迅速な行動、それによって天下争の勝負は決した、といえるだろう。
さらに登ると大きな鳥居があった。
「山崎合戦之地」と書かれた碑があって、ようやくここが昔、合戦の地であったことを知った。
横に説明文があって、豊臣秀吉と明智光秀が戦った戦だとようやく知った 💧
日本の戦と言われても、川中島、長篠、小牧・長久手、関ケ原ぐらいしか知らない。
山崎の合戦
この天王山中腹に立つと、対岸の男山、そして手前に流れる淀川を眼下におさめることができます。左手(東側)が京都府(山城国)、右手(西側)が大阪府(摂津、河内国)にあたります。地峡には西国街道と淀川の水路が通っており、京都と西日本を結んでいました。
天正十年(一五八二)六月十三日、まさにこの場所で羽柴(後の豊臣)秀吉と明智光秀による山崎合戦が行なわれました。同年六月二日、本能寺の変で主君織田信長を倒した光秀は、京都を抑え、天下取りに向けて着々と準備を進めていました。一方、同じ信長の部将だった秀吉は、前線だった備中高松城(岡山市)の戦いを収拾し、光秀を討つため、東上を開始します。これを知った光秀は、減ヶ峠、八幡、淀、大山崎など、山城国の国境に分散して軍勢を配置し、京都盆地を守る態勢を整えました。
一方の秀吉軍は、高山右近を先陣とし、織田信孝、丹羽長秀と連合して、西国街道の沿道にあたる大山崎に絞って攻め上りました。これに対峙するため、光秀軍は分散していた前線の兵を勝龍寺城(長岡京市)へ呼び寄せます。後手に回った光秀は、大山崎出身と考えられる松田太郎左衛門尉に天王山を占拠するよう命じますが、秀吉軍の堀尾吉晴によって先に奪われました。前哨戦で勝利した秀吉軍は、この地に馬印を掲げ、山麓を進軍する秀吉軍主力を鼓舞したと伝えられています。
秀吉軍と光秀軍の主力は、小泉川(大山崎インタージャンクション周辺)で激突しました。兵力で勝る秀吉軍は、光秀軍を撃退し、敗走中の光秀は山科で殺害されました。
山崎の合戦で勝利した秀吉は、天王山頂に山崎城を築き、畿内近国を制圧します。その後、彼は大坂城(大阪市)と聚楽(京都市)を構築し、全国統一を成し遂げました。
秀吉が天王山に駆け上って味方の式を高めるために軍機を掲げた「旗立松」。
この松の木は五代目。
鳥居のそばにでっかい絵巻が2つある。
頼みの諸将来たらず
本能寺で織田信長を討ち取った明智光秀は、織田家の諸将はみな、遠くで強敵相手に対陣しているので、すぐには動けまいと見て、その間に畿内を制圧するつもりでいた。ところが、羽柴(豊臣)秀吉が毛利と和睦、十日目の六月十日(新暦七月九日)には尼崎まで来たと聞いて驚き、近江(滋賀県)から京都に戻り、翌十一日には洞ガ峠に登った。大和郡山城主の筒井順慶の来援を促すためだ。明智光秀は、恐ろしい「鬼」の信長さえ討ち果たせば、古い伝統を尊ぶ武将や寺院が立ち上がり、自分を支援してくれると思い込んでいた。だが、そうはならず、あてにしていた組下大名さえも離れていった。親類の細川藤孝や筒井順慶も来なかった。光秀の思いとは逆に、大胆な改革で経済と技術を発展させた織田信長は、豪商から庶民にまで人気があった。このため「主君の仇討ち」を旗印とした羽柴秀吉の方に多くの将兵が集まった。
六月十二日、空しく洞が峠を降りた明智光秀は、一万六千人の直属軍を天王山の東側に扇型に布陣させた。当時は淀川の川幅が広く、天王山との間はごく狭い。兵力に劣る明智方は、ここを出て来る羽柴方の部隊を各個撃破する作戦だった。同じ日、羽柴秀吉は摂津の富田に到着、花隈城主の池田恒興、光秀の組下だった茨木城主の中川清秀や高槻城主の高山右近らも参陣した。四国攻めのために和泉にいた信長の三男の信孝や丹羽長秀も加わった。総勢三万数千人、明智勢の二倍以上だ。翌十三日、羽柴方の先手の中川清秀と高山右近が天王山と淀川の間を越えて東側に陣を敷き、秀吉の弟の羽柴(豊臣)秀長もこれに続いた。
明智方もじっとしていられない。申ノ刻(この季節なら午後四時半頃)、天下分け目の決戦ははじまった。この日、空は雨雲に覆われて暗く、地は長雨を吸って黒かったという。本図は、決戦直前の両軍を北側から見おろした構図。画面右側に羽柴方が、左側に明智方である。
天下分け目は関ケ原じゃねーの?
大事な一戦とか、肝心かなめの時、いまでも「天王山」っていう?
天下分け目の天王山
「天王山」といえば「天下分け目の大決戦」の代名詞となっている。しかし、実際の合戦は、天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであった。
天正十年六月十三日(新暦では一五八二年七月十二日)申ノ刻(午後四時半頃)、天王山の東側に展開した明智勢が、羽柴(豊臣)秀吉方の先手、中川清秀、高山右近、羽柴秀長らの諸隊に攻めかかった。天王山と淀川の間の狭い道を出て来る羽柴方を各個撃破する作戦である。
だが、戦いは明智光秀の思い通りには進まなかった。天王山の東側には油座で知られる山崎の町があり、その東側には広い沼地が広がっていた。この地形が双方の行動を制約、斉藤利三、並河掃部、松田太郎左衛門らの精鋭を連ねた明智方の猛攻でも、羽柴方の先手を崩すことができなかった(画面右下)。
その間に、淀川沿いでは羽柴方の池田恒興、加藤光泰、木村隼人らの諸隊が進攻、円明寺川の東側にも上陸した。
川沿いの明智方は手薄で、ここを守る伊勢与三郎、御牧三左衛門、諏訪飛騨守らはたちまち苦戦に陥った(画面上方)。羽柴秀吉が本陣の大部隊と共に天王山の東に出たのは、合戦がはじまって半刻(約一時間)ほど経った頃だ。
この図はその直後の戦場を、北から南向きに描いている。画面左側の水色桔梗の幔幕に囲われた光秀の本陣では、後退する味方の様子に不安な気分が現れている。右側の秀吉の本陣では勝利の確信が拡がり、貝を吹く足軽まで自信と勇気に溢れている。
画面右上では、参陣の遅れた丹羽長秀が山崎の木戸を通り過ぎようとしている。
天下分け目の決戦は、日暮れた後に終わった。破れた明智光秀は勝龍寺城(画面左端)に逃げ込んだ。その頃、秀吉は天王山に登って戦場を見下ろしたかも知れない。闇に包まれた戦場跡には、負傷者を援ける松明が無数に揺れ動いていたことであろう。
さらに登ると「十七烈士の墓」がある。
禁門の変がなんちゃらと書かれていたが、幕末とかもう興味なし w
昔は誰もが追い剥ぎをしてたのかな。
そんな時代に生まれなくてよかった。
明智光秀の最期
天下分け目の合戦は、一刻半(約三時間)ほどで終わった。明智勢は総崩れとなり、総大将の明智光秀は勝龍寺城に逃げ込んだ。だが、ここは小さな平城、到底、羽柴(豊臣)秀吉の大軍を支えることはできない。明智光秀は、夜が更けるのを待って少数の近臣と共に勝龍寺城を脱け出し、近江坂本城を目指して落ち延びようとした。坂本城は明智家の本拠で光秀の妻子もいた。
しかし、山科小栗栖にさしかかった時、竹藪から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃して果てた。当時は、普通の村人でも落ち武者狩りに出ることが珍しくなかった。光秀を刺したのも、そんな落ち武者狩りの一人だった。享年五十五歳、当時としては初老というべき年齢である。
これより十五年前、足利義昭の使者として織田信長と相まみえた明智光秀は、詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われて織田家の禄を食むことになった。それからの出世は早く、僅か四年で坂本城主になり、やがて丹波一国を領地に加えて織田家屈指の有力武将にのし上がった。織田信長と将軍になった足利義昭とが不和になった際には、いち早く信長方に加担、細川藤孝らの幕臣を口説いて信長方に転向させた功績が信長に高く評価されたのだ。
だが、光秀は、信長の改革の過激さに反発を感じ出した古い常識にこだわる知識人の弱さ、というものだろう。
一方、山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉は、時を移さず明智光秀の領地を占領、丹羽長秀や池田恒興ら織田家の重臣たちを配下に加え、「次の天下人」への道を駆け登る。この間、織田家の他の重臣たちは容易に動けなかった。みな前面には強敵がいたし、背後では土一揆が蜂起した。信長の死と共に、織田領全体に混乱が生じていたのだ。世はいまだに乱世、将も民も、野心と危険の間で生きていたのである。
更に登ると自玉手祭来酒解神社。
「たまでよりまつりきたるさかとけ」と読む。
「自」が「より」ということか。
ここに牛頭天王が祀られていたので天王山という名前になった。
最後の絵巻は秀吉が天下人になったところ。
天王山頂上に到着。
ちょっとした広場になっている。
低山で登りやすいので高齢者のハイカーグループがいた。
山崎の戦いの後、秀吉は山頂に山崎城を築いたが、大阪城築城が本格化すると破却され、天守も取り壊されたそうだ。
YAMAPには出ていない「サントリー山」?
サントリー山の山頂。
十方山の頂上。
天王山から先は石碑や寺院はなくただ歩くのみ。
ぐるっと一周して名神高速道路の近くに出てきた。
サントリー山崎蒸留所はコロナのため工場見学休止中。
アルコールを飲まないからあまり興味ないけど。
平安時代、当神社の神官が「長木」という荏胡麻の実から油をしぼる道具を作ったので、「本邦製油発祥の地」として日本中の油商から崇敬されているらしい。
五重塔など塔の中央に立つ心柱を支える「塔心礎」と呼ばれる石で、奈良時代以前に作られたものと考えられている。
その後、柱座部分を扇形に彫り込んで手水鉢として使用されていたそう。
ゆっくり歩いているうちに、体のだるさがとれてきた。
たった2時間歩いただけで帰るのももったいないので、ずっと前から行ってみたいと思っていた岩清水八幡宮に行くことにした。
天王山・小倉山・十方山 / ちゃんらーさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ