とすと
パンを買ってなかったので、ホテルの隣の「とすと」というレストランにモーニングを食べに行く。
窓ガラスが真っ黒で、最初、閉まっているのかと思った。
ホテルのスタッフがシャッターが閉まってなれば開いているはずというので、ドアを開けると営業してた。
洋食のモーニング(550円)。
午前中は部屋で仕事をして、午後から宮古島に来て初めて天気がよくなったので車ででかける。
あま井
自然洞窟の井泉である。降り口から湧き口までの深さは約20m、自然洞窟井泉の規模としては大きく水量も豊かである。1965(昭和40)年に城辺で上水道が普及する以前は、この共泉が飲料水を始め、生活を営む上の貴重な水資源であった。水を汲むのは婦女子の日課で、あま井に降りる七段の側面の岩には摩滅してしまったところが数箇所あり、当時の苦労がしのばれる。あま井について、「雍正旧記(1727年)には堀年数不明」と記されている。友利砂川、新里の各元島・旧集落の住民が、明和の大津波(1771年)以前から現在地への集活移動後も長く利用した井泉である。地域住民の水利用のあり方やその歴史的変遷を知る上でも価値の高い泉である。
見下ろすとずっと底まで階段が続いている。
暗い洞窟が広がっている。
洞窟の一番奥に湧き水が貯まっていた。
洞窟の底で水を汲んで上まで担いで上がるのは重労働だっただろうな。
イムギャーマリンガーデン
シュノーケリングをしてる人がいた。
展望台には黒毛和牛?
展望台から見ると、真っ青な入り江。
橋のところで外の海と繋がっている。
入り江の反対側の外海も綺麗な海の色。
散策道が入り江をぐるっと一周して駐車場まで続いている。
城辺仲原ムイガー
昨日来たときは風が強く雨が降っていたので、階段の下にある湧き水は見に行かなかった。
コンクリートの囲いに湧き水が貯められている。
囲いの外はもう海岸である。
ここから長い階段を登って上がらないといけない。
最初に見た「あま井」より大変。
晴れているので東平安名崎の方向がよく見える。
潮汲場
石碑にかろうじて「潮汲場」と書かれているのが読める。
切り立った断崖絶壁になっているが、高さはそんなにないので怖くはない。
東平安名崎
東平安名崎につくと空が晴れてきた。
雨が降って陰鬱だった昨日とは全然雰囲気が違う。
正面から入らず、駐車場の裏手にある散策道を歩く。
崖から見下ろすと白く泡立った波が見える。
岬の北側には海の中に大小様々な岩が転がっている。
平安名埼灯台は上まで登ることができる。
灯台の入口でお金(300円)を払って階段を登る。
灯台の灯りの部分。
300円でこの景色が見られるなら払う値打ちあり。
特に、保良漁港の方の海に岩が転がっている景色がとてもきれい。
沖合が白く泡立っているのはバリアリーフだろう。
マムヤの墓
保良漁港の海の色がめちゃくちゃキレイ。
東平安名崎見晴台から青い海と細い岬が見渡せて一番気に入った。
島の北側の道路を通って西平安名崎に向かう途中、「不時着の地記念碑」があった。
一九四二(昭和一七)年一月二十四日日本軍の九九式襲撃機が六機編隊で宮古島上空を飛行中、通信兵と二人乗りの隊長にエンジントラブルが発生、この地に不時着した。岐阜県の各務原を飛び立ち沖縄本島経由で台湾・フィリピン方面へ飛行機の輸送任務中のことであった。
当時この地は、起伏が激しく、わずかな平地を捜して着陸はしたが、修理後の離陸を困難と判断した小田泰治機長(当時陸軍中尉二十二歳)は、滑走路作りの協力を城辺村長に要請した。これに応え、島内児童生徒·老若男女が連日作業に当たり、一ヶ月後には約幅三十メートル長さ三百メートルの手り滑走路が完成、飛行機を無事離陸させた。五十五年後「おかげで任務が遂行できた」と小田機長が来島した際この現場を確認した。
比嘉ロードパーク
日の出を見るスポットらしい。
帰る日の朝に来ようと思ったが、帰る日はどんより曇ってた。
西平安名崎
池間大橋が見える。
岬の先端から西平安名崎を見たところ。
2台の風力発電がある。
HARRY'S Shrimp Truck
西平安名崎の駐車場のそばのバスが調理場。
左のテラスで食べられるが、雲行きが怪しくなってきた。
ガーリックシュリンプの店。
人気ナンバー1のバターガーリック(1,430円)を注文。
出来上がるころには風が吹いて雨が降り出したので車の中で食べる。
朝食を食べてから何も食べてなかったので腹ペコ。
海老は殻をむいて食べたほうが美味しいけど、殻には栄養があるらしい。
池間大橋を渡る予定だったが、雨が降ってきたので、今日はここまで。
まだ明日がある。