おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、正社員から週休5日、日給5万円、半在宅勤務、有休フル消化のハケン社員になりました

宮古島 旧市街地史跡巡り

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盛加(むいか)が一

街中にあるのにひっそりしている。

水道の発達しないころ、人々の生活用水は天水と各所に散在するうリがー(洞井)であった。集落はうリが一を中心に形成、発達してきており、宮古の歴史はうリがーを切りはなして考えることはできない。
盛加が一内には小規模ながら貝塚層もあり、周辺一帯からは多くの青磁片、土器片等が表面採取でき、大きな集落跡を物語っている。郷土史家の稲村賢敷氏は、14世紀後半勢力をふるった与那覇原一党の本拠地をここ盛加が一一帯にもとめているが、異説もあってさだかではない。盛加がーは、平良近郊ではもっとも規模の大きいうりがーで、石段は103段設けられ、婦女子の踏みしめた跡を残している。

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ちょっと薄気味悪い。

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階段をどんどん下りていく。

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一番奥に貯水池がある。

暗くて気づかず、危うく水の中に入っていくところだった。

大きな川がなくて水がとても貴重だったのだろう。

ググってみると、今は地下ダムを作って水源にしているらしい!

「地下ダム資料館」というのがあるらしい。

これは是非とも行かねば!

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でっかい洞穴になっている。

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本土と違って冬でも青々としてジャングルみたい。

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大和井(やまとがー)

平良市街の東北に位置する泉(洞井)である。『雍正旧記』(1727年)に記されている内容から、1720年ごろに掘られたと考えられている。井戸の周りは大小の切り石を円形に積み上げてあり、上り下りの通路には石段が設けられている。伝承によれば、首里王府派遣の在番役人など一部の者のみが使用し、一般の人々には解放されなかったといわれている。かつては泉にいたるまでに2ヶ所の門があって、水守りもいたとの言い伝えがある。南島の人々と水とのかかわり合い、石工技術の見事さを示す石造遺跡として類例のないものである。

ガジュマルの木の下に入口がある。

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ここにも階段を下りていくと小さな貯水池があった。

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説明文をよく読んでなくて、上の場所が大和井だと思ったが、まだ奥に道が続いているので行ってみる。

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するともっと大きな構造物が見えてきた。

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宮古の人びとは、戦後水道が普及するまで、うりがー(洞井)を中心に集落をつくり、暮らしをたててきた。うりがーは、一般に上り下りの通路に石段を設けるていどで、多くは自然のまま利用していた。なかで大和井のみは、全般にわたって人工がほどこされている。下部に大石をすえ、上部になるにつれて小石にかわる。切り石を円形に積みあげた構造、規模ともに県内では他に類をみない。
水量はゆたかで、日でりにもかれることはなかったが、伝承によれば、在番役人や頭など、ごく一部の上層役人だけが占用し庶民には開放されなかったという。門扉を用いたと思われる跡を止どめ、水守りのいたことを裏づけている。築造年代は不明だが、宮古島旧記の記述から一七二〇年ごろと推定される。

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古代文明の遺跡みたい。

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前に見た2つの貯水池と違って地表にむき出しなので落ち葉が溜まってる。

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ふばかり石(人頭税石)

そういえば、与那国島にも「人頭税廃止百年記念の碑」があったっけ。

この石は私の肩よりも低いが、説明をよく読むと、この石は人頭税の史実とは無関係とある 💧

平良字荷川取の海際に、人の背丈ほどの石柱が立っています。地元では、「ぶばかり石(賦計り石)」と呼んでいて、「島の人はこの石より身長が高くなったら人頭税を課せられた」という古くからの言い伝えも伝わっています。この石柱について柳田國男著『海南小記』の中で紹介され、全国に知られるようになりました。
宮古島の近世では、数え15才~50才までの男女に税が課され、男は粟、女は布を納めました。それは苛酷な税制で、役人による税の取り立てに、人々は長年苦しめられ続けたといいます。琉球列島には一部の地域に石柱信仰があり、この石は人頭税の史実とは無関係のようです。ただ、この石に託して人頭税による生活の苦しみを語り伝えてきた人々の声に耳を傾けることは、今を生きる私たちに必要なことでしょう。

島の人々がどんなに貧乏な生活を送っていたかが書かれている。

明治36年1903年)まで続いていたというから恐ろしい。

今は青い海に囲まれたリゾート地だけど、昔は悲惨だったんだな。

人頭税の歴史
1637年、琉球王府は先島(宮古島八重山諸島)に人頭税制を施行しました。税制は頭数(人口)を基準に粟や織物を税として割り当てたもので、役人の見立により税を納めさせられました。1659年には、頭数の増減に関係なく一定の税を納める「定額人頭税」制となり、更に、1710年には15才~50才の年齢が基準とされました。
女性が織った御用布は島の税の3分の2を占め、また薩摩上布として大阪で高値で取引されていたため、天候不順で飢饉に見舞われたときでも滞納は許されず、実質的に強制労働に近いものでした。税を確実に納める手段として、各村に「五人組」という制度が設けられ、その組の誰かが年貢を納められなかった場合、その組で責任を持たされ、また、五人組が納められない場合は村が、村が納められない場合は島全体でまかなうという、連帯責任のシステムが取られました。
1888(明治21)年の大飢饉を機に人頭税の廃止が訴え始められ、1893(明治26)年、代表団が上京して請願書を国会に提出しました。その請願書には農民の生活が次のように記されています。
「島民はさつま芋を常食とし、大半の島民は粟の味を知らず。味噌を持っている者は全島民の4分の1で他の皆は海水に水を足して芋の葉や蔓、海藻などを煮て食べている。醤油などは口にすることは無い。衣服は夏は芭蕉布1枚、冬は破れた木綿の着物を1枚上に着るのみ。ひどいところは1、2枚の夏着を家族で代わる代わる着ている。建物も丸太の上に草で屋根を葺き、茅を編んで四面を囲っているだけで、大半は土間で、蓆を敷くのは稀である。家も非常に小さく、要するに本州の乞食を彷彿とさせる(一部要約)』
こうした廃止運動が実り、1903年(明治36年)1月1日の新税法施行に伴い、260年余にわたる人頭税は廃止されました。

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みなと食堂

お腹はあまり空いてなかったけど、Googleマップで高評価だったので寄ってみた。

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鰹塩アーサーそば(850円)

麺にこしがあって美味しかった。

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豊見親墓(知利真良豊見親の墓)

墓なんてないほうがいいよ。

造ったら管理が大変なだけ。

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豊見親墓(仲宗根豊見親の墓)

宮古島のボスの墓。

墓の中に井戸(がー)がある。

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木に覆われそうになっている墓もある。

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豊見親墓(あとんま墓)

忠導氏にゆかりのある墓で、同氏族のあとんま(後妻)だけを葬ったことから、俗に“あとんま墓”と呼ばれています。
墓は岩盤を掘り込み、切石と組み合わせた墓で、いつ建造されたかは明らかになっていません。忠導氏は16世紀初頭に宮古島の支配者として君臨した仲宗根豊見親を元祖に数多くの頭職を出し、勢力を誇った系統です。その勢力・財力を背景に宮古島の風習として本妻と同じ墓に葬ることのできなかったあとんまの墓を設け、その霊を弔ったものと思われます。

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宮古神社

何が基準かはわからないけど、日本最南端の神社らしい。

石垣島には神社がないのかな?

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神社の前の石畳の道。

漲水石畳道
18世紀始め、宮古島の治山土木工事が精力的に進められていた頃、各村の道路幅は2間半(4.5m)に拡張、改修、新設されたと伝えられています。
1696(元禄9)年の大地震後、石畳道も2間半に拡張され、治山事業で豊富に得られた石を敷きつめたものと考えられています。廃藩置県後もほぼ完全に残っていましたが、1921(大正10)年の平良港築港、1942(昭和17)年の宮古神社移転にともなう工事、第二次世界大戦戦後の道路の拡張工事などで損傷し、現在は約3分の1を残すのみとなっています。

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漲水御嶽

宮古島創世の神話並びに人蛇婚説話等にいろどられ、古代宮古人の源流をさぐる上からも貴重な御嶽てある。南側石垣は目黒盛の玄孫、仲宗根豊見親(忠導氏祖)が1500年中山王府の先導で、八重山の「オヤケ赤蜂らの事件」制圧にさいし、神霊の加護で勝利したら神域を整備、奉納すると誓願、めでたく凱旋した戦勝記念に築いたと、「忠導氏正統家譜』に明記されている。オヤケ赤蜂らの制圧については賛否分かれるところであるが石垣そのものは直接には民衆の労働の成果であり、当時の石造技術を知るうえでも貴重である。

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ドイツ皇帝博愛記念碑

港の近くの市街地にドイツ皇帝ウイルヘルムー世の命によって1876年3月20日に建立、22日除幕式が挙行された。1873年7月、宮古島の南海岸・宮国沖合に座礁したドイツ商船ロベルトソン号の乗組員を宮古の人々が助けた。助けられた8人の乗組員たちは、一ヶ月余り看護された後に船を与えられ帰国した。ウイルヘルムー世は、この宮古の人々の救助活動を知って大変感激し、軍艦チクロープ号を宮古島に派遣して、漲水(現平良)港の見える丘の斜面に記念碑を建てさせた。記念碑は、表の上段はドイツ語、下段と裏面は中国語で遭難や救助活動のことを明記している。

なぜに中国語?

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宮古島まもる君

奄美大島加計呂麻島にもまもる君がいたな。

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空港の近くに市役所があるみたいだが、こっちは移転前の市役所らしい。

横を通っているとき、廃墟かと思った。

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