今月は毎週でかけまくりでブログ更新が追い付かない💦
先々週、ダイヤモンドトレイルを歩いたとき、紅葉にはまだ早かったので、今週は高野山に登って宿坊に泊まることにした。
高野山にはメジャーな巡礼の道として、 町石道、黒河道、京大坂道があるが、町石道は8月に歩いたばかり、黒河道はYAMAPで歩行禁止マークが出ているので、京大坂道をあるくことにした。
京大坂道は2011年11月以来2回目。
前回のほうが天気もいいし紅葉もちょうど見頃だった。
電車には日本人だけでなく外国人も乗っていたけど学文路で下りたハイカーは私だけ。
仕事もそうだけど、楽なことをしても、全然脳に残らないし身にもつかないぞ!
「西光寺」には人魚のミイラが納められているらしい。
町石道、黒河道、京大坂道の3つのルートの中では、一番距離が短くて楽なので、近世以降、主要参詣道として利用されるようになったそう。
迷いそうなところは、標識や地図が出ているので迷うこともない。
河根という部落。
江戸時代は宿場町として賑わったらしい。
「河根丹生神社」にお参り。
「元本陣中屋旅館」
江戸時代に栄えた東高野街道河根宿の本陣で、身分のある人たちの宿泊、休憩所となり、今残る乳門(?)と上段の間はそのころの遺構として貴重な存在である。
上段の間は明治4年2月29日赤穂藩士村上兄弟一行7人が明日こそ父の仇を高野山のふもとで討ち取ろうと夜遅くまで密談をこらしたところ
説明書きがあるけど半分ぐらい消えてしまってる。
千石橋を渡る。
ナンテンの実は漢方薬として知られ、乾燥させたものは咳止めの効果があるけど、有毒なので取り扱い注意だそう。
この水槽は金魚が飼われているのを覚えていた。
今も二匹の金魚が泳いでいた。
落ち葉がいっぱいの上り坂。
すっかり忘れていたが、京大坂道って、最後の極楽橋から女人堂まで、旧道を歩けば土の道だけど、それ以外は全部アスファルトかコンクリートの道。
アスファルトの道は足が痛くなるから嫌い。
多肉植物が塀にいっぱい繁殖してる。
日本で最後の仇討ちがあった場所だそう。
明治4年(1871年)2月30日に、この地で仇討ちがあり、「日本最後の高野の仇討ち」とも「神谷の仇討ち」ともいわれている。復讐劇の起こりは、9年前の文久2年(1862年)の赤穂藩内の争いである。赤穂藩主・森家の家督争いが原因で、赤穂藩老・執政の森主税と参政の村上真輔が、尊王攘夷派の藩士、吉田、西川ら13人に暗殺された。その後、藩内の勢力争いも絡んで、村上一族が閉門追放され、遺児らはこのため仇討ちの決心を固めたと言われている。襲撃した吉田らは脱藩し、長州藩に身を寄せていたが、長州藩は吉田ら7名に赤穂藩への帰参を命じた。赤穂藩は、吉田、西川らの処置に困り、高野山に登って歴代藩主の廟所と高野山釈迦文院の守り役を命じた。殺生禁断の高野山に入山させれば、村上一族の復讐から逃れられると判断したといわれる。村上一族は、復讐の決意を固め、仇討ち事件の当日朝、河根宿の本陣・中屋に泊まり、吉田、西川たちを待ち伏せした。そして村上方7名が、吉田方7名を討ち、本懐を遂げて、直轄の五條県庁に自首した。そして、この事件が直接の原因で、明治6年2月に太政官布告によって「仇討ち禁止令」が出された。村上方の処罰は、一審で全員死罪となったが最終的に「禁固10年」又は「准流10年」の判決となった。
仇討ちに遭った人たちのお墓。
「むすびの地蔵」
お堂に祭られているのは、さまざまな願いを受け止め縁むすびの地蔵と語り継がれている。
一心に信仰精進する者あればすべての福徳の縁を頂き幸福の日々が約束される現世利益の諸緣むすびの仏さまです。
願いがかなわないときは信心が足りないってことでヨロシク😎
オン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ
「しらふじ」という旧白藤小学校をリニューアルした週末だけ営業の喫茶。
ケーキを食べようか迷ったけど、バナナ2本とランチパックを持ってきたのでパス。
高い屋根の家屋は昔は宿だったのだろうか。
だんだん曇ってきた。
11月中旬というのに、長袖Tシャツ一枚で汗だく。
極楽橋に到着!
この調子じゃ、宿坊のチェックイン時間よりだいぶん早く着いてしまいそう。
ちょうど特急こうやが入ってくるところだった。
乗ってるのは金持ち欧米人ばっか(知らんけど)。
特急こうやの到着に合わせて、ケーブルカーがちょうど下ってきた。
極楽橋からはコンクリート敷の整備された道があるが、舗装されてない旧道を歩く。
晴れていたらもっと綺麗な写真が撮れたはず。
「谷間を窺ふに、其深さいくばくと知れず」この場所は断崖絶壁であり、足を踏み落とすと命に関わる場所として知られてきました。そのため、この場所は山内で罪を犯した者の手足を縛り付け、簀巻きにして崖下へ追放したと伝えられる刑場跡のひとつとして万丈転と名づけられています。
見た感じ、全然、断崖絶壁という感じじゃない・・・。
現在地は、大正9年まで不動堂が建っていた場所と考えられています。この不動堂は、不動坂口女人堂の傍に建っていた不動堂(錐揉不動)の内不動に対して、外不動と呼ばれていたようです。江戸時代にはすでに建立されていたと考えられていますが、明治16年に焼失し、明治20年に再建されています。その後は大正9年に修復移転がおこなわれ、現在では、「清不動」という名称で花折坂に向かう上り口に現存しています。
高野山に向かって左手、林立する樹木の合間から垣間見える滝は、稚児滝(兒瀧)と呼ばれています。滝の名称については諸説ありますが、江戸時代後期編纂の『紀伊統風土記』には「昔見の捨身せし所といひ傳ふ」とあり、成人に至らぬ身を投げたことに由来していることが伺えます。また、宝永5(1708)年に初演された近松門左衛門による高野山を舞台にした浄瑠璃『心中万年草』では、高野山吉祥院の小姓、久米之助と雑貨屋の娘、お梅が最後に身を投げる悲哀の場所として登場します。
滝の音は聞こえるけど、木々が茂りすぎて全く見えない。
コンクリート敷の道に出て大正9年に移設された「清不動」に出る。
わかりにくいが、「清不動」の裏から旧道がまた続いている。
旧道が終わって、またコンクリート敷の道をしばらく登る。
女人堂に到着。
昔はここから先は女人禁制。
紅葉の時期は盛りを過ぎている。
アモイ旅行に行ってた週が一番の見頃だったっぽい。
壇上伽藍に続く道。
YAMAPの記録はいつも壇上伽藍をゴールにしてる。
西南院の紅葉を見に行くがやはり見頃を過ぎてた。
まだ14時だけど疲れたので宿坊に向かう。
一般的なホテル同様、15時がチェックイン時間と思っていたけど、ブログを書きながら確認したら14時だった。
前回より少し遅くなったが、距離が短いので楽勝、というかちょっと物足りなかった。
でも極楽橋から女人堂までの旧道以外ずっと舗装された道なのでもう歩きたくない。
京大坂道(学文路〜壇上伽藍) / ちゃんらーさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ