おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、正社員から週休5日、日給5万円、半在宅勤務、有休フル消化のハケン社員になりました

あそこ寿司の島寿司と八丈島半周(三原山側)

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電動自転車を8時間レンタル(1,500円)。

島の南半分、三原山の周囲を一周する。

八丈島歴史民俗資料館

あそこ寿司を予約していたので、それまで民族資料館に行く(100円)。

建て替え予定なのか、旧八丈支庁庁舎の一角を間借りしている。

木造南蛮風羅漢坐像
木造の一本造で、通肩にまとった法衣の上に西欧風のマントを羽織っている。作者は不明。近藤富蔵が著した八丈実記には、本像が挿図入りで紹介されており、「釈迦堂安置海中出現元禄七甲戌歳五月上野喜左工門森清口像供養之達磨尊者像御長ヶ九寸程台座高サ四寸五分、巾八寸程」と、元禄7年(1694)に海中から発見され、達磨像として大賀郷の楊梅ヶ原の釈迦堂に安置されていたことが伝えられている。このような洋装の像は、日本の長崎崇福寺、沖縄円覚寺、富山瑞龍寺、などにもあり、いずれも17世紀後半に請来されたものである。

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八丈小島・宇津木の為朝神社
八丈島には史実のほどは不明だが、源為朝伝説が多くあり、小島宇津木に為朝神社があって、源頼朝が神鏡を奉納したとされている。1602(慶長7)年には、徳川家康八丈島の代官奥山縫殿助に命じて、神鏡と神像を奉納させている。為朝は、疱瘡(天然痘)除けの神様とされていたので、この神像は、その後、将軍家若様(7代将軍家継)の疱瘡除け祈願のため、1711年江戸城に運ばれたのを皮切りに、1752,1783,1817年に江戸で御開帳された。1785年帰島の際、服部船が破船し海中に没したが、捜した結果引き揚げられ、その報告書を幕府に提出するという事件も起きている。小島が引き揚げることになった時、巫女に占ってもらったら、為朝神社は小島に残るとのことであった。このため、御霊は小島に残り、都の文化財となっている神像は、ここに展示されている。

八丈小島は今は無人島になっているが、かつては人が住んでいた。

民俗資料館では一切触れられていないが、マレー糸状虫症という風土病があったとウィキペディアに書かれている。

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八丈島の流人について
八丈島は流人の島と言われており、島人の多くが流人の子孫のように思われたり、また、流人が極悪非道の人のように思われている面があるが、大きな間違いである。ときには、問題を起こす流人もいたが、島の生活や教育、文化に貢献した流人が多くいたのである。
八丈島に送られた流人は、慶長11(1606)年の宇喜多秀家主従が最初であり、明治4(1871)年までの約265年間に、約1900人であった。ちなみに、江戸時代の流人は、大島約150人、利島約10人、新島1333人、神津島83人、三宅島約2300人、御蔵島50人、青ヶ島6人とされる。送られた者が全て八丈島に着いたわけではなく、伝馬町の大学や中の島などで亡くなった者も多い。また、流人と言われているが、その中には、罪を犯した者(流罪人と付き添って来た者がある。

八丈島の島民は流人の子孫と思ってた 😅

また、歴史はもっと古いのかと思っていたが、もっと古い時代は佐渡ヶ島とか隠岐の島とかか。

八丈島の島名由来は、長さ8丈の絹織物にあったとされる。

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年配のスタッフの方が島の風土について説明してくれた。

北西に八丈富士(西山)、南東に三原山が聳えていて、中間の平地に空港がある。

三原山のほうが古い火山で、もともとは三原山の麓に集落があったそうだ。

中間の平地は八丈富士に近く、水源もなく、農業には適していない土壌だったそう。

離島としては水に恵まれていて、今でも上水道用のダムはないらしい。

八丈島は水の豊富な島として知られています。一般に比較的新しい火山は水を通しやすく、八丈富士のように、山に降った雨は短時間で山体深くに浸みこんでしまい、湧水や河川が見られないものです。しかし、三原山は火山活動が休止してから長い期間を経ており、地表の比較的浅い部分に帯水層が形成されています。そのため、山に降
った雨は、この帯水層の中を表層地下水となって流れ、山の中腹から湧水となって流れ出し、大川や芦川などの恒常河川を生み出していると考えられています。
(処分場だよりから引用)

ところで、南大東島には銅像まであった玉置半右衛門であるが、歴史民俗資料館にはまったく何の資料もなかった。

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宇喜多秀家の墓

八丈島流人第一号である宇喜多秀家の墓。

豊臣政権の五大老の一人で、関ヶ原の戦い西軍の副大将として戦ったが、戦に敗れて八丈島に流された。

明治2年(1869年)、明治政府によって赦免され、翌年子孫の七家が東京板橋の前田家下屋敷に引き取られたとある。

普通の島民では家柄が釣り合わないだろうし、どういった相手と縁を結んで血脈を保ったのだろう。

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近くに、秀家が34歳で流刑になって83歳で没するまで住んでいた住居跡がある。

といっても、新しい石碑があるだけ。

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秀家が築いた岡山城内堀の石垣が寄贈されて飾られている。

ちっちゃーい!!

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大里の玉石垣

見事な玉石の石垣。

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よく見ると、蜂の巣状に一つの石を六個の石が取り囲んでいる。

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陣屋跡の看板があるが、全く何もない。

享禄元年(1528)に、小田原北条氏の代官中村又次郎が来島し、此処に陣屋を設けた。江戸時代になると、幕府は此処を島役所(陣屋御仮屋と言った)とし、明治33年(1900)には東京府八丈島庁となり、島の政治の中心地だった。しかし、明治41年(1908)には島庁が移転したため、政治とは無関係の所となった。此処大里地区は、戦国時代から明治時代にかけて八丈島の政治や宗教の中心地であった。

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あそこ寿司

島寿司(醤油漬け)は前日までに要予約。

1人前だと少ないと思って1.5人前を予約しておいた。

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お待ちかねの島寿司(1.5人前、3,000円)!

大東島で食べて美味しかったので、また食べたかったのだ。

カンパチと目鯛。

サーモンとマグロ以外の魚は見分けがつかない 😅

島寿司は山葵(わさび)のかわりに芥子(からし)が使われている。

また、酢飯は甘め。

大変美味しゅうございました 😄

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有名な店らしいが、平日だからか、オフシーズンだからか、まん防だからか、私一人だけ。

八丈島に多くある、菊池、奥山、浅沼などの苗字は、渡島した代官の苗字だそうだが、あそこ寿司の店主も浅沼だそうだ。

玉置半右衛門の玉置という姓はあまり聞かず、八丈島出身であることも知らなかった。

八丈島では英雄かと思ったら、全然知られてないんだ。

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抜船の場

流人の中には漁船を盗んで脱出を図る者もいたが、成功が確認されているのは1回だけらしい。

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こんな波が白く泡立っているのに、無理・・・。

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八丈オリエンタルリゾート(廃墟)

八丈富士に登ったときに大きな建物が見えて気になってた。

近くに行って初めて廃墟のホテルとわかった。

日本三大廃墟の一つらしい。

バブル時代のホテルかと思ったが、帰る日に送迎のバスで聞いたら、海外旅行が盛んになる前、八丈島が新婚旅行で人気があった頃に建てられたホテルとのこと。

ググると、昭和43年(1968年)に建てられ、2006年に休館になったらしい。

トリック劇場版2』(2006年)の撮影ロケ地としても使用されたそうだ。

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建物の前に行こうと、エントランスを回り込んだら、建物に通じる通路はご覧の通り、雑草が生い茂っていて近づくことすらできなかった。

荒れっぷりがすごすぎる・・・。

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ドローンで撮影した動画があった。


www.youtube.com

人間魚雷「回天」二号壕跡

歴史民俗資料館のスタッフに教えてもらって見に行った。

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海岸から川を少し登った崖の中腹にほら穴が掘られている。

​昭和二〇年の春、本土決戦に備え特攻兵器の人間魚雷「回天」が、沖縄・九州・四国・近畿の各地方と、関東では唯一、この八丈島に第二回天隊の「回天」八基が配備された。その内の四基がこの底土基地で、後の四基は末吉地域の石積基地にあり、回天隊員はそれぞれ格納壕の中で進発時期が来るのを待ち続けていた。回天隊員の任務は、八丈島へ侵攻するとき先ず艦砲射撃を加えてくる敵戦艦の撃滅であった。「回天」は、直径一m、長さ十四・七五m、最高速力三〇ノット、重量八・三トンで、車輪付きの架台に載って格納壕の中で待機し、進発する時はレールの上を動いて斜路から海に入り、機械を発動して敵艦に向かう。しかしながら、その進発の機会は遂に訪れず、終戦となつてのち、武装解除のため来島した米国艦隊が「回天」全部の爆破を指示したので、回天隊員は自らの手により、各「回天」の爆薬一五五トンを装填した頭部を切り離して海中に投棄した上、胴体を格納壕に納めて爆破した。底上の「回天」格納壕は長さ三七m、幅三m、高さ三・五mの大きさで、二箇所の壕に「回天」を二基ずつ収納した。陸側の一号壕はのちに崩落したが、海側の二号壕はこのように現在もその姿をとどめている。

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ウクライナ情勢が混沌としているが、日本がもし攻められるようなことがあったら、私も真っ先に日本のために命を賭して戦うつもりだ。

言うだけならタダ 😝

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登龍峠展望台

三根から末吉に行く天に登る龍のようなつづら折りの急な坂を越えたので、登龍峠と呼ぶようになったそうだ。

八丈富士と市街地が見える。

アシスト自転車でもけっこう登るのがしんどかった。

まだ1/4も周っていないのに天気が悪くて時々小雨が降っていたので、この先進むかどうするか迷ったが、なんとかなるだろうと先に進む。

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名古の展望台

天気がよければ、「末吉温泉 みはらしの湯」に行きたかったが、小雨が降っているので、あきらめて、最短コースで一周することにした。

電動自転車のバッテリーの三段階の一番右の明かりが消えてしまった。

まだ距離が半分以上あるのにバッテリーがもつか不安になる。

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八丈島灯台が見える。

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八丈服部屋敷

服部家の初代は下田の出身であるが、二代目から代々島の官船の内、小舟方のお舟預かりを勤めて莫大な資産を築いた。しかし、船方さんの一生を図で示すが如く、その歴史は波瀾に富み、悲劇的な色彩を帯びて、豪勢を誇った家屋敷も今では此処が毎日観光客に郷土芸能を披露する名所となっている。屋敷人口の石垣は、流人近藤富蔵が築城形式に依って築いたものである。

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八丈太鼓と樫立踊りの公演をやっているらしいが、コロナ禍のせいか人影なし。

そういえば、八丈太鼓の特徴は、太鼓を横にして両面から二人で叩くそうだが、大東島にも伝わっているらしいと歴史民俗資料館のスタッフが話してたっけ。

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道路の脇に酒壺が並べられていた。

八丈島ではサツマイモが伝わるまで、たびたび飢饉にみまわれていたそうだ。

島酒(焼酎)と丹宗庄右衛門
八丈島の酒は、焼酎伝来までは、日本酒だった。幕府は飢饉の島・八丈島では穀類を消費どぶろくする酒造りを禁止した(守られてはいなかった)。酒は黒い濁酒で、『八丈実記』には風味がよいとあるが、梅雨時期に醸造し雑菌が入ったりするためか、飲んでも酔わなかったとか、黒い煤のような物が口周りについたとか、という文献もある。丹宗庄右衛門は、薩摩藩の抜荷(密貿易)の罪により江戸で捕えられ、嘉永6(1853)年八丈島に流されたが、そのままでは保存のきかない薩摩芋を原料に、製造器具や種芋を鹿児島から取り寄せ、製法を教えた(三宅島の焼酎も庄右衛門が元祖)。現在、八丈島には製造会社が4社ある。古い製法を残しているのは、青ヶ島の一部の焼酎である。

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人捨穴(風葬跡)

八丈島はたびたび飢饉に見舞われたので、人里離れたこの場所に人を置き去りにして捨てたらしい。

与那国島でも人減らしのために妊婦を飛ばせたと伝わる「久部良バリ」という割れ目があったっけ。

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奥に小さなお地蔵様が祀られている。

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大坂トンネル展望台

天気が晴れていたらよかったのに・・・。

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展望台の背後の山の斜面には砲台跡がある。

けっこう奥まで続いていて、先が暗くて見えない。

気持ち悪いので入らない。

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歩道がついているので、片手運転でスマホで撮影しながら坂を下る。

小雨が降ってて地面が濡れているのにコケなくてよかった w

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為朝神社

八丈島では、源為朝八丈小島で自害したとされ、小島・宇津木に為朝神社がある。八丈小島の住民は引き揚げたが、祀られる魂は残り、神社跡も残っている。伝説によれば、為朝が八丈島へ来た時、男女同棲すると祟りがあるとして島は女性のみであった(青ヶ島は男性のみで、年に1回海を渡って来たという)が、為朝は島の娘と結婚し男子を得、以後男女同棲するようになったという。この神社は大正時代に個人が分社して開いたもので、この辺りには為朝遺跡が多い。為朝の腰掛石や耳跡石、城跡、弓矢で切り通しを射抜いた場所、鬼の伝説(神社裏の断崖鬼石)などがある。

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優婆夷宝明神社(うばいほうめい)

千年以上前に編纂された延喜式神名帳に記されている大変古いもの(式内社という)で、八丈島の総鎮守(郷社)とされる。社地には、稲荷神社など5神が祀られており、社殿内には祭神・木造女神座像(都文化財)や境内にはキリシタン灯篭(別名、織部灯篭。町文化財)などがある。

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これがキリシタン灯篭か?

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帰ってから調べると、社殿の後ろにある、この左の灯籠と、奥に見える登録が、キリシタン灯篭(織部灯篭)らしい。

キリシタン灯篭は以下のような特徴があるらしい。

  • 竿の円部に、アルファベットを組み合わせた記号を陰刻
  • 竿の下部に立像を浮彫
  • 台石がなく竿の部分が直接地面に埋め込まれている

地面には直接、埋まっているが、記号や立像があるかわからない。

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八重根のメットウ井戸

これも歴史民俗資料館のスタッフに教えてもらった。

三原山周囲と違って、水源がなかったので井戸を掘ったらしい。

西山(八丈富士)溶岩流が形成した裾野の、末端部に掘られた螺旋形を呈する井戸で、上部の直径は約二〇m、下部は約六〜八mで、深さは約八mです。井戸の底は土砂の流入で埋没しており確認できませんが、中央部はさらに約五mほど円筒状に掘り込まれているといわれています。
この井戸は、石碑の銘文から明治一三年(一八八〇)頃に造られたと推定されています。井戸水は飲料水のほか、畜産・養蚕・酒造など産業用水としても利用され、この地区に水道が敷設されるようになった後まで使われていました。
「メットウ」とは、八丈の方言で「ギンタウハマ」という海産巻貝のことで、道が螺旋を描いて下っている様子から「メットウ丼戸」と呼ばれるようになったようです。

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底まで降りて中を除くと水が溜まっていた。

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垂戸湾

雨が降り出していたのに、海が荒れていたので垂戸湾に立ち寄る。

台風のときに、川や海を見に行きたい人の気持ちがよくわかる。

この直後から大雨になった。

さっさとホテルに帰っていたらギリギリ間に合ったと思うが、垂戸湾に寄ったせいで土砂降りにあってずぶ濡れ。

この間買ったザノースフェイスのジャケットを着ていたが、高かっただけあって、内側のTシャツは濡れてなかった。

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昨日は天気がよかったのに、島の天気は変わりやすい。

翌日はまたいい天気になったし。

三原山に登れなかったのが少し心残り。

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