おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、正社員から週休5日、日給5万円、半在宅勤務、有休フル消化のハケン社員になりました

長崎市内観光(唐人屋敷跡~孔子廟~グラバー園)

長崎市内を観光(午前の部)。

唐人屋敷跡

長崎に到着した日の夕方に回ったらもう閉まってたのでもう一回行ってみる。

鎖国政策が行われるまで中国人は市内に自由に住んでいました。しかし密貿易とキリスト教浸透を防止するため、幕府は1689年に唐人屋敷を建設し、中国人を収容・隔離、出入りを厳しく管理したのです。周囲を練塀や堀で囲まれた唐人屋敷は、約9,400坪の広さと、約2,000人の収容能力をもち、瓦葺き2階建ての長屋が約20件ありました。

土神堂

唐人屋敷は、徳川幕府鎖国政策の一つとして、現在の館内町に設置した唐人の居住所であり、元禄2年(1689)に完成しました。この土神堂は元禄4年(1691)唐船の船主らの願いにより建てられました。天明4年(1784)の大火で焼失し、のち再建され、以後数回にわたり改修されました。昭和25年(1950)老朽化および原爆の被害を受けたことから解体され、石殿だけが残っていましたが、昭和52年(1977)に再建され、現在に至っています。


天后堂

唐人屋敷は、徳川幕府鎖国政策の一つとして、現在の館内町に設置した唐人の居住所であり、元禄2年(1689)に完成しました。この天后堂の創立は、元文元年(1736)南京地方の人々が航海安全を祈願し、天后聖母を祀ったのが起源といわれます。寛政2年(1790)重修、明治39年(1906)に改築し、現在に至っています。

観音堂

唐人屋敷は、徳川幕府鎖国政策の一つとして、現在の館内町に設置した唐人の居住所であり、元禄2年(1689)に完成しました。この観音堂は、瓢箪池の奥の石に「元文二年(1737)」の刻字がされていることから、この年に創建されたものと思われます。天明4年(1784)の大火で焼失し、その3年後に再建されました。大正6年(1917)中国商人鄭永超の手で改築され、現在に至っています。

福建会館(正門・天后堂)

福建会館の前身は江戸時代後期に遡るが、明治元年(1868)『八閩会館』として正式に発足した。その後、明治30年(1897)に至り建物を全面的に改築し、福建会館と改称した。現存するのは正門と天后堂などであり、天后堂の北側に隣接していた会館本館(会議所)の建物は、昭和20年(1945)の原爆により倒壊した。正門は、三間三戸の薬医門形式で、中国風の要素も若干含んでいるが、組物の形式や軒反りの様子、絵様の細部など、主要な部分は和様の造りとなっている。これに対し、外壁煉瓦造の天后堂は架構法なども純正な中国式を基調とし、一部木鼻や欄間は、和様となっている。このように、様式的には和・中の併存であり、中国との交流の歴史が凝縮された建造物であるといえる。

正門

天后堂

孫文の像。

孔子廟

オランダ坂を歩いて孔子廟に向かう。

かつて長崎の人々は、出島に住むオランダ人の影響から開国後も東洋人以外の外国人を「オランダさん」と呼び、「オランダさんが通る坂」という意味で、居留地の石畳の坂を一般に「オランダ坂」と呼んでいたそうです。居留地界隈のオランダ坂は、映画やテレビのロケで数多く撮影され、長崎を代表する人気スポットの一つです。

長崎孔子廟明治26年(1893)に清朝政府と在日華僑が協力して建てたもので、日本で唯一の本格的な中国様式の孔子廟です。大成殿奥の博物館は、1983年に、中日両国の相互理解と文化交流を目的に新設されたもので、中国国内の博物館が提供する中国国宝級文物を常設展示しています。

入場料(660円)。

宮殿や廟の瓦は清朝時代に法制化されて、その色で住人の地位を表している。皇帝の宮殿や陵廟は黄色、親王など後続の住居と廟宇は緑色で、孔子は皇帝と同等に扱われたので、黄色の瑠璃瓦の使用が許された。

九龍壁じゃなくて五龍壁。

大成殿の前に孔子の高弟72賢人像が並んでいる。

礼(礼儀)、楽(音楽)、書(書道)、数(数学)、射(弓の技術)、御(馬車の運転)の「六芸」に秀でた者たちだそう。

大成殿

軒下の幕に書かれている「有教無類」は「教えありて類なし」と読み、身分を問わず、学ぶものは誰でも入門できる、教育によってどういうひという人にでもなり得るということを簡潔に述べている。

屋根の鳩は、現代は平和の象徴だが、孔子の時代では一番言うことを聞かない悪い生き物とされており、「その鳩でも平等に学ぶことができる」という意味を表している。

ちょっとユーモラスな表情の孔子像は、座像としては国内最大。

麒麟は聖人が世に出ると現れるといわれる中国古来よりの想像上の端獣(ずいじゅう)で、姿は鹿に似て、尾は牛、蹄は馬、背毛は五彩で、毛は黄色。
向かって右を麒(雄)、左を麟(雌)と呼ぶ。

伏虎の型をして背中がギザギザになっており、それを木、竹のササラでこすり音を出す。音楽を止めるときの合図とする。

台南の孔子廟には木製っぽい色付けされた「敔」があった。

博物館は3階建てで、3階が長崎孔子廟資料館、2階が中国歴代文物展示館、1階が売店

館内撮影禁止と気づかず、何枚か撮ってしまった。

グラバー園

グラバー園に行く「グラバースカイロード斜行エスカレーター」があったが、脇の階段を上がる。

途中に展望台がある。

グラバー園に入る(620円)。

旧三菱第2ドックハウス

旧ウォーカー住宅

旧リンガー住宅

1868年、フレデリック・リンガーとE・Z・ホームによってグラバー商会の後を引き継ぐ形で、ホーム・リンガー商会を設立した。この商会は、長崎の主要な貿易品である緑茶の輸出を行った。他の貿易品には、英国などから、機械、造船器材、鉄板、板ガラス、カージフ炭、毛織物、洋酒などの輸入販売を業務としていた。また数十にも及ぶ各種事業公社の代理業務も兼任していた。

ナガサキ・ホテルとフレデリック・リンガー

日清戦争の歴史的な勝利によって、日本は東アジアにおける国際貿易や政治的・軍事的利害関係の大渦巻きの中に引きだされることになった。また、長崎港は中国大陸と台湾に近く、石炭や物資の供給港、外国の商船や軍艦の休憩地点として未曾有の繁栄を享受した。その結果、ホテルの需要が高まり、19世紀末には長崎居留地に数軒の西洋式ホテルが出現した。
国際貿易港として栄えた長崎の黄金時代に建てられた最も豪華なホテルは、英国人商人フレデリック・リンガー率いる投資家グループにより明治31年(1898)に下り松(現在の松が枝町)に建てられた3階建ての「ナガサキ・ホテル」だった。鹿鳴館や上野博物館の建築で知られるジョサイア・コンドルの設計によるこのホテルには、港の眺望、各部屋に電話、自家発電、高価なヨーロッパの家具調度品、食器類、ワインが豊富に揃ったワインセラ一、理容室、そしてフランス人シェフが腕を振るう厨房など、世界に誇る最新の設備が揃っていた。
しかし、日露戦争後に長崎の国際貿易港としての繁栄は衰退し、旧外国人居留地のホテルは次々と姿を消した。ナガサキ・ホテルを経営していた会社は明治37年(1904)に倒産し、ホーム・リンガー商会がホテルを引継いで復活させたが、リンガーが英国で死去した翌年の同41年(1908)に閉業し、家具や食器類などをオークションに売り出した。その後の約10年間、同ホテルは閉ざされていたが、商人の森荒吉が操業を再開した。しかし、運営はうまく行かず、大正13年(1924)にホテルは再び閉業し、優雅な建物はその後間もなく解体された。

もしや長崎ちゃんぽんで有名なリンガーハットはこの名に関係するんじゃないかとググってみると

リンガーハット(RingerHut)のリンガーは、長崎で広く貿易商を営んでいたフレデリックリンガーという英国商人の名前にあやかったものです。長崎にグラバー園という有名な公園がありますが、ここにはグラバー邸とともにこのリンガーさんの邸宅「リンガー邸」が建っています。「長崎ちゃんぽん」という長崎の郷土料理を販売するにあたり、郷土にちなんだこの大商人の名前をつけさせていただきました。ハットは小屋とか小さな家という意味で、通して訳すと「リンガーの小さな家」となりますね。(リンガハットHP)

旧オルト住宅

1865年に建てられた石造りの住宅。建てたのは大浦天主堂を手掛けた小山秀之進です。オルトはここで数年暮らし、その後は活水女学校やアメリカ国領事館、リンガー家の住宅などとして利用されました。

旧スチイル記念学校

「スチイル」の名前は息子を若くで亡くしたアメリカ人宣教師W・H・スティール博士が資金を寄贈したことに由来しています。また、この呼び名は居留地内の呼び名で、長崎の街の人々は「私立東山(とうざん)」学院と呼んでいました。

旧グラバー住宅

世界遺産
1863年に建築された現存する日本最古木造洋風建築。日本瓦や土壁(漆喰)が使用され、広い石畳のベランダに掛かるアーチ形の欄干が印象的です。ここでグラバーと息子の二代が暮らしました。

造幣局や企業設立へ尽力

1871年(明治4)、明治政府は貨幣制度を確立するため、大阪に造幣局を創設。創設にあたり尽力した五代友厚は、造幣機を導入するためにグラバーに協力を依頼しました。グラバーは香港のオリエンタル銀行を通じて造幣機械を調達し、造幣局創業を監督させるためにイギリス人の専門家かんとくを大阪に手配しました。
また1885年(明治18)、横浜でビール会社「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」の設立に尽力。国内に滞在する外国人と日本人の投資によって工場を建設し、ドイツより技術者を呼び良質なビールを醸造しました。この会社が現在の「キリンビール株式会社」の前身となります。

長崎 グラバー邸 - Insta360

三浦環

日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の「蝶々さん」と重ね合わされて「マダム・バタフライ」と称され、国際的に広く知られた。(Wikipedia

プッチーニ

プッチーニも知らなきゃ、三浦環も知らない。

蝶々夫人』は知らないけど、ミヤコ蝶々は知ってる 😛

「長崎伝統芸能館」を通って出る。

長崎くんちの奉納踊

長崎くんち諏訪神社の秋季大祭で、毎年10月7日から晴天の3日間行われる、荘厳な御神幸と国際色豊かな奉納踊で知られる絢爛豪華な都市型祭礼です。長崎くんちの奉納踊は、寬永11年(1634)、太夫町(現在の丸山町·寄合町)の遊女、高尾·音羽の両名が神前に謡曲「小舞」を奉納したのがはじまりといわれています。奉納踊には、国際貿易都市・長崎の土地柄を反映し、日本固有の伝統芸能のほか、中国やオランダなど海外の文化の影響を受けて成立したものが見られることが特徴です。この大祭に奉納される奉納踊は、歴代の長崎奉行が援助を与えたことや、唐蘭貿易により潤う長崎町人の豊かな経済力もあって年々盛大になり、華やかさを増していきました。長崎くんちの奉納踊は、長崎独特の文化的伝統を伝える重要な伝統芸能として、昭和54年(1979)に国の重要無形民俗文化財に指定されています。

大画面の動画での説明がわかりやすくて面白かった。