おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.5万円、在宅勤務のハケン社員になりました

長崎市内観光(大浦天主堂~諏訪神社~眼鏡橋~出島)

長崎市内を観光(午後の部)。

大浦天主堂

グラバー園を出て近くの大浦天主堂に行く。

孔子廟グラバー園より入場料(1,000円)が高い!

国宝「天主堂」の美しい建物は、歴史文化都市・長崎のシンボルとなっています。一方で、その歩みは「信仰の自由」を獲得する苦難の歴史でもありました。
日本と西洋の最初の出会いは大航海時代においてです。中でもフランシスコ・ザビエルが伝えたキリスト教は全国に広まりました。ところが、やがて禁教令が出され、同時に西洋との交流は長崎の出島に絞られました。
2度目は幕末の時です。黒船の来航で安政の開国が実現すると、長崎には外国人商人や討幕派の志士たちが集いました。こうした中、大浦天主堂は外国人用の教会として誕生します。この天主堂において、禁教令下で密かに信仰を守った潜伏キリシタンが、1865年3月17日、プティジャン神父に信仰を告白し、「信徒発見」の奇跡として世界に知られることになりました。
その後、浦上四番崩れなどの大迫害、軍国主義によ抑圧、そして原爆による大被災を乗り越え、カトリック長崎大司教区(長崎県内)の教会は130を越えるまでになりました。

大浦天主堂は二つの歴史的な出来事と関わりがあります。一つは、1597年の日本二十六聖人の殉教です。大浦天主堂は、正式には、「日本二十六聖殉教者聖堂」と言い、1862年に二十六人の殉教者たちが聖人に列せられたのを受け、捧げられた教会です。そのため、大浦天主堂は殉教の地である西坂に向けて建てられています。もう一つは、1865年の「信徒発見」です。大浦天主堂1864年に建てられ、翌年2月から公開が始まったその約1ヶ月後の3月17日に、浦上の潜伏キリシタン達が信仰の告白をして名のりを挙げました。プティジャン神父は大喜びでフランス、ローマに報告しています。

何度か書いてるけど、宗教なんて信じてない。

宗教がない方がよっぽど争いの元が減って世界は平和。

旧羅典神学校

旧長崎大司教

旧羅典神学校と合わせてキリシタン博物館になっている。

グラバー坂を路面電車大浦天主堂駅」まで歩きながら土産屋を物色。

長崎南山手プリン

美味しそうな幟が立っていたので立ち寄る。

プリンソフト(600円)。

は上はカラメルソースがかかったソフトクリーム、下はコーンフレークとプリンになっててウマー。

岩崎本舗

角煮パックマン(458円)。

豚まんの皮で豚の角煮を包んでいる。

角煮は脂のにゅるっとした食感が苦手だけど、豚まんの皮で感じない。

諏訪神社

路面電車諏訪神社駅」で下車。

長い階段が続いていて、途中で広い車道が交差している。

まよひ子志らせ石

この石柱は、明治十二年、当時の長崎県警察課、警察署に在勤する警部一同の手によって建立された。当時ここら一帯は氏神を詣でる庶民の往来で賑わったが、時には人ごみにもまれて親を見失う子等も少なくなく、不安に泣き叫ぶその姿が道行く人々の憐を誘った。この実情を見かねた数名の警部は互いに資金を寄せ合ってこの石柱を建て、親と子の安心を念願したのである。

大門

長崎 諏訪神社 - Insta360

さすが坂の街。

景色はよくても住むのは嫌だな。

拝殿

厳島神社(左)と八坂神社(右)

色んな神社がまつられてるんだ・・・。

石造狛犬

長い歳月に風化が甚だしい。巻き毛のたてがみは独特の形態で珍しく、阿形の狛犬は口に玉を含み中国の影響がみられる。
「阿」は梵字[ぼんじ]で口を開いて発する最初の音声なので、仏教では物事の始まりを表す。 口を開いている仁王像を阿形と言う。

玉園稲荷神社

中島川石橋群

桃渓橋(市指定有形文化財

寛永11年(1634)最初の石橋眼鏡橋が架けられて以後、17世紀末までに中島川と直交する道路のほとんどに石橋が架けられました。
桃渓橋は、延宝7年(1679)僧卜意の募財により架橋された石造アーチ橋です。側にある地蔵堂を卜意地蔵といい、この橋は卜意橋とも呼ばれています。昭和57年(1982)の長崎大水害により大破しましたが、その後原形に復旧されました。

編笠橋

中島川の第4橋。最初、石造アーチ橋が元禄12年(1699)岸村氏夫妻によって架設されたが寛政7年(1795)の洪水で流失した。昭和57年(1982)の洪水で流失した石橋は、この位置では2度目の石橋アーチ橋で、享和2年(1802)長崎奉行所によって架設されたものであった。この橋は、今博多町が往時、“あめがた町”と呼ばれたことにちなんで、明治15年(1882)に編笠橋と命名された。

たくさん石橋がかかってる。

大きな鯉や鮒が泳いでる。

眼鏡橋

1634(寛永11)年、興福寺の黙子如定(もくす にょじょう)禅師が架設したとされている眼鏡橋。川面に映る影が双円を描き「メガネ」に見えることからこの名前がついたと言われ、東京の「日本橋」、山口の「錦帯橋」と並び日本三名橋に数えられます。1982年の長崎大水害で一部崩壊しましたが翌年復元され、国の重要文化財に指定されています。

有名なのはやはりこの眼鏡橋

出島

もう歩き疲れてたけど、最後に出島に行く。

扇状のカーブになってるのはこっち側だけで、反対側は完全に埋め立てられていて、全然、出島の雰囲気なし。

昔と同じ場所に作るより、別の場所に出島の形を復元したほうがよかったのでは?

長崎港の入り口にあたる岬の先端の一部を埋め立てて造られた出島は、扇の形をした海に浮かぶ島でした。寛永11年(1634)キリスト教の布教を禁じ、海外との貿易を続けるため、江戸幕府は長崎の町人に、新しい離れ小島をつくらせ、寛永13年(1636)に完成しました。海に突き出た島は、“出島”と呼ばれるようになり、海外貿易港長崎を象徴する場所になりました。
出島の最初の住人は、ポルトガル人でしたが、寛永16年(1639)にポルトガル船の来航が禁止されると、寛永18年(1641)に平戸からオランダ商館が移転し、その後はオランダ人が居住しました。ポルトガル人やオランダ人は、出島を築造したはら町人たちから借用し、家賃を払って貿易をおこないました。

入場料(520円)。

あんまり情緒を感じない。

江戸時代にどうやって埋め立てをしたかの説明があり興味深かった。

もう忘れたけど 💦

江戸時代、国内で生産された銅は、長崎から中国、オランダの貿易船によって、世界へ向けて輸出されました。アジアやヨーロッパでは、日本の銅が求められ、様々な製品が作られました。
銅は17世紀後半以降、それまでの銀に代わって輸出品の中心になっていた。最盛期には年間3000~5400トンの銅が輸出され、1697年には日本の産銅は約6000トンと世界一を記録した。

かつての日本がそんな銅の輸出大国とは知らなかった。

カピタン部屋

商館長の住居であったカピタン部屋の2階には、商館長の私室と事務所および迎賓館としての機能をもった公的な部屋がありました。

旧出島神学校

明治11年(1878)に建てられた、現存する日本最古のプロテスタント神学校。

1/15のミニチュア。

中華菜館 福壽

夕飯は、Googleマップの口コミをもとに「中華菜館 福壽」へ。

そぼろ皿うどん(1,430円)

予想したのと違ってて、あんまり美味しくなかった。

小エビのチリソース(1,820円)

合わせて3,250円。

長崎でいくつかの店でちゃんぽんや皿うどんを食べたけど、ぶっちゃけ、リンガーハットが一番好き🤣