おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.5万円、在宅勤務のハケン社員になりました

建仁寺双龍図と炭焼鰻 土井活鰻

全国旅行支援のクーポンが9,000円もあるので、うな重を食べることにした。

宿から歩いて行ける八坂神社の近くの「炭焼鰻 土井活鰻」に行くことにした。

途中、建仁寺という大きなお寺があったので、入ってみる。

建仁寺

東山と号する臨済宗建仁寺派大本山である。
鎌倉時代建仁二年(1202)に日本臨済宗の開祖である栄西禅師により創建され、年号をとって建仁寺と名付けられた。
当初は天台宗真言宗禅宗の三宗兼学であったが、十世の円爾弁円や十一世の蘭渓道隆を経て禅宗寺院として確立し、室町時代には禅寺の格付け制度である五山制度の下で、京都五山の第三位となった。
方丈(重要文化財)は、慶長四年(1599)に安芸(現在の広島県)の安国寺から移築された室町後期の禅宗方丈建築で、鎌倉後期の遺構を伝える勅使門(重要文化財)は、扉にある矢の痕跡から「矢の根門」とも呼ばれている。
寺宝として、俵屋宗達の代表作である「風神雷神図屛風」(国宝)、海北友松の「竹林七賢図」「花鳥図」「雲竜図」など、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画を多数蔵している。また、法堂の天井には、平成十四年(2002)に建仁寺開創八百年を記念して、日本画小泉淳作氏によって畳百八畳分の「双龍図」が描かれている。栄西は、中国から茶を持ち帰り喫茶を普及した茶祖としても知られ、毎年四月二十日に方丈でおこ回れる「四頭茶礼」は、禅宗茶礼の古式を今に伝えている。

仏教はいろいろ宗派があってややこしい。

おまけに「宗」の下に「派」まである。

みんな自分が開祖になりたいってことか。

拝観料は600円だったので入ってみる。

いつも説明文はその場ではほとんど読まず、写真に撮って、ブログを書くときに初めて読んでいる。

テキストはGoogleレンズで抽出してる。

その場で読んでも右から左へ抜けていくだけだし、後でゆっくり読む方が理解が深まるのに一助あると思う。

ただ、説明を読んで、ちゃんとポイントを見とくんだったと後悔することもたまにある。

風神雷神図屏風

後の尾形光琳酒井抱一らへと続く、琳派の祖とされる俵屋宗達。その生涯には謎が多いが、京都で絵屋を営む上層町衆の出身であったと考えられ、既存流派の形式にとらわれることなく、金銀泥を活かした装飾的かつ斬新な造形を生み、当時の宮中や町衆などの間で人気を博した。琳派の象徴的作品であるだけでなく、日本美術史上の傑作として名高い本作は、落款・印章は伴わないものの俵屋宗達の手によるものとして疑いはない。もともと風神は風、雷神は雷雨を司る自然を神格化したものであるが、日本では仏教の千手観音の眷属とされてきた。二神のみを絵画の主題として描く、本図のダイナミックな構図は宗達独自の着想と考えられ、当時の自由でおおらかな気風を今に伝える。本作は定かではないものの、京都の豪商、打它公軌が京都・妙光寺の再興を祈念して、宗達に制作を依頼、後に現在の所蔵者である建仁寺に移されたと言い伝えられている。

あの有名な俵屋宗達の「風神雷神図屏風」(国宝)の複製。

あの有名なと書いたが、本当は全然知らない🐽

キャノンの複製技術がビデオで紹介されていた。

〇△□之庭

単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四台思想(地水火風)を地(□)水(〇)火(△)で象徴したものと言われる。

どれが△なのかわからない。

「舟出」という襖絵らしい。

潮音庭

中央に三尊石、その東には座禅石、周りに紅葉を配した枯淡な四方正面の禅庭。

荒れた海の砕ける波ならずっと見てられるけど、絵とか庭とかずっと観賞してる人って何をみてるんだろうといつも思う。

唐子遊戲図 田村月樵筆

床壁貼付絵の月夜唐子舟遊図を主題とする。葦茂る湖上に、五人の唐子が舟より月を眺める風情をあらわすが、漂渺たる空間に雲間の月が浮かび、その影が湖面に幾重もの輪となって映じられているのがおもしろい。押入襖絵の書画を楽しむ情景は、むしろ微笑ましく、舟遊の風流事とともに酒脱な趣味が汲み取れる。
南側壁貼付絵から東側襖絵にかけては、一転して遊び戯れる唐子たちの姿態が、闊達にとらえられ画面をいっそう明るく動きのあるものとしている。唐子の人物描写に見るよどみない筆運びは、筆者の円熟した画境をそのまま表明しているかに受け取れる。明治四十五年の作にて月樵六十七歳となり最晩年にちかい時期である。
彼は始め写生画に傾倒し、明治初年には、京都洋画壇の先駆者として活躍した「宗立」の名で知られている。
唐子遊戯図は近世の好画題であり、ことに円山派の画人によってしばしば手がけられてきた。月樵の唐子は、多分にその影響が認められるとはいえ、墨書きによる手練は独自のものであり、群としての唐子の配布も妙をえている。

花鳥図襖(重文)の複製品

近世初期の建仁寺復興にからんで海北友松が制作した建仁寺方丈障壁画50面の内、書院を飾る8面の襖絵。二本の松を生やす盛り上がった地面から飛び立たんとするように体をよじる孔雀、梅に留まる叭々鳥(ははちょう)のつがいと池に浮遊する三羽の水鳥を連続した構図にて配している。これらをつなぎ合わせていたであろう2面の襖絵は惜しくも欠損しているが、友松の筆使いが華麗さと豪胆さを持って語りかける建仁寺方丈障壁画の白眉である。

対島行列輿

江戸時代に入ると、五山派寺院も戦国の荒廃から復興に向かうことができた。徳川幕府による五山派寺院に対する保護と統制は、足利幕府と大同小異であった。寛永十二年(一六三五)「五山十刹諸山之諸法度」という寺院統制令が制定され、学徳兼備の五山僧を「碩学」と呼び一定の禄が与えられるようになった。その碩学に、建仁寺では「古澗慈稽」「三江紹益」「利峰東鋭」の三師が推薦された。また、五山僧は漢文に関する知識が広く、これが外交文書作成の面から、江戸時代の外交に一役買うことになる。「対州修文職」である。「以酊庵修簡職」とも呼ばれる。
以酊庵というのは、九州長崎の対馬にあった寺の名である。この寺は対馬の太守・宗義調の請いに応じ景轍玄蘇が朝鮮との通講の任に当たった天正八年にはじまる。徳川幕府寛永十二年南禅寺を除いた五山寺院の天龍・相国・建仁・東福の四山碩学中より「対州修文職」を選出、輪番制で以酊庵に出張駐在させることになった。この対州修文職は慶応二年(一八六六)まで二三〇年続くことになる。この間八七名のベ一二六名の輪番僧が赴任している。これらの僧は当時の五山の代表的人物で、建仁寺からは十八師が名を連ねている。

琴棋書画図襖(国宝)の複製

近世初期の建仁寺復興にからんで海北友松が制作した建仁寺方丈障壁画五十面のうち上間一之間(衣鉢の間)を飾る十面の絵。本作品のみが著色画であるが、狩野派的な真体著色画とは大きく印象が異なり、水墨画的要素をとどめている。友松の画体は狩野派の影響を受けた画風から、玉潤や梁備の様式を導入し狩野派を脱しようとする画風、そして友松様式の確立した画風へと変遷するが、この作品は長い画面中に主題に関わる画面を中心部に集め両端に空間が広がっているのが、狩野派的構図からすると異例でありこの仕事に賭ける彼の意気込みが見て取れる。

田村月薫遺愛の大硯

田村月薫は、一八四年丹波の国園部に生まれる。幼少より絵筆に親しみ、長じて南画、日本画を描くなか、時は明治初期、日本に怒涛のごとく押し寄せた西洋文明のあらしのなかに油絵をみつけ、強い衝撃をうける。画材の油の調達に苦労しつつも、陰影の不思議さなど油絵のもつ面白さに打ち込み、研鑽を重ね心血を注ぎのち、我国洋画界の先覚者とまでいわれるようになる。しかし晩年は、油絵から遠ざかり、ただ仏画のみに没頭することになる。六十七~六十九才の折には建仁寺方丈の襖絵「唐子遊戯図」や霊洞院(僧堂)の襖絵「雲龍図」などを描き、胞を揮うが一九一八年七十二才でこの世を去る。
この碑は、月薫が生前愛用した長さ三尺の大現で大海原に臨んで一疋の蛙がはらばって前進してゆくようすを彼自身が刻みつけたというものである。
前出の襖絵もこの硯から生み出されたものであろう。

安国寺恵瓊首塚

安国寺恵瓊は天文七(1538)年、安芸国守護武田氏の一族として生まれた。天文十(1541)年、大内氏との戦いで武田家が滅亡し、当時四歳だった恵瓊は安国寺に身を寄せることとなる。以後十二年間、当寺で仏道修行に精進し、十六歳のときに生涯の師と仰ぐこととなる笠雲恵心に巡り会う。この直後、恵瓊は京都東福寺に入り、五山禅林の人として修行を重ねた。そして、恵瓊三十五歳の時、正式に安芸安国寺の住持となり、この頃から毛利家の政治にかかわる外交僧として活躍をはじめる。羽柴秀言が率いる織田軍が中国地方に侵攻してきた際には、毛利氏の使者として秀吉との交渉にあたり、この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まったといえる。やがて、天下人となった秀吉は恵瓊を直臣の大名に取り立て、伊予国二万三千石を与えた。また恵瓊は、建仁寺の方丈移築を始め東福寺の庫裏の再建など、旧来の建築物の修復に関与し、多くの功績を残している。
その後恵瓊は慶長五(1600)年、関ヶ原の合戦において主家毛利氏を石田三成らの西軍に味方させ、自身は西軍の最高首脳として暗躍するも、小早川秀秋が東軍に内応したこともあって、西軍は敗退。恵瓊は毛利家西軍荷担の罪で同年十月一日、京都六条河原にて斬首され、六十三歳の波乱の生涯を閉じる。この首塚はその恵瓊の首を建仁寺の僧侶が持ち帰り、ゆかりのある当寺の方丈裏に葬ったものである。

安国寺恵瓊の業績を初めて知った。

山水図襖(重文)の複製

近世初期の建仁寺復興にからんで海北友松が制作した建仁寺方丈障壁画五十面のうち檀那の間を飾る八面の襖絵。本作品は内東側の四面にあたる。この四面においては、水景と楼閣滝の場面が描かれている。本作『山水図』は、建仁寺方丈の各部屋に観られる室中の間の袋人物をはじめとした、『雲竜図』(礼の間)『花鳥図』(書院の間)、『琴棋書画図』(衣鉢の間)と絵画の内容がはっきり描かれている点で異なり、玉潤に学んだとされるアクセントが入れられ、大きな余白も実に効果的で、友松様に昇華された画風がみられる作品である。

十一面観音菩薩坐像
今から約四百年前、徳川二代将軍・徳川秀忠公の娘である東福門院(後水尾天皇中宮で、明正天皇の生母)に御寄進を頂いた大切な寺宝であります。

雲龍

雲龍図は虎図とともに室町時代にもよく描かれた画題であった。またしばしば禅寺の法堂の天井に描かれるのは火難を避けるためとか、架空の霊獣の飛翔する雄大な姿から、一種神格化された浄域の表現とも考えられた。
龍は本草網目に「龍の九似あり、駝に似た頭、鹿に似た角、鬼に似た眼、牛に似た耳、蛇に似た項、蜃に似た腹、鯉に似た鱗、鷹に似た爪、虎に似た掌」と説かれ、その全貌を知ることができる。友松は、龍をいくつか手がけたものと思われる。北野天満宮、勧修寺等著名な作品を多数残している。すさまじい迫力が要求される画題であるから、腕をふるうにふさわしかったのであろう。
雲龍図は幅広い画面に、龍を大きく力動的に配置している。変転流動する暗雲は、没骨で処理されているのに対し、龍自体には闊達な描線が駆使されている。かかる筆墨の激しい対比は水墨障壁画の真骨頂を吐露しうる端的な手段であり、友松は当方丈において、存分にその成果をあげたといえる。ことに本図は、画面構成の要求によく応えたものであり、練達された画境と認めることができる。

法堂

双龍図

この天井画「双龍図」は平成十四年(二〇〇二)、建仁寺開創八百年を記念して、鎌倉在住の日本画小泉淳作氏によって描かれたものである。大きさは縦11.4m、横15.7m(畳108枚分)あり、麻紙とよばれる丈夫な和紙に、中国明代で最上の墨房といわれる「程君房」の墨を使用して描かれている。製作は北海道河西郡中札内村の廃校になった小学校の体育館を使って行われ、ヒグマに襲われながらも、構想から約二年の歳月をかけて平成十三年十月に完成。翌年四月十四日、建仁寺山内の僧衆によって開眼法要が厳修された。
龍は仏法を守護する存在として禅宗寺院の法堂の天井にしばしば描かれてきた。また「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から護るという意味がこめられている。
しかし、建仁寺の八百年にわたる歴史の中で法堂の天井に龍が描かれた記録はなく、この双龍図は創建以来、初めての天井画となる。通常の雲龍図は大宇宙を表す円相の中に龍が一匹だけ描かれることが多いが、この双龍図は阿吽の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図が用いられている。そして二匹の龍が共に協力して仏法を守る姿が小泉画伯の重厚かつ独特の水墨世界観で表現されているといえる。

自撮り棒禁止とあったので、棒を伸ばさず撮った。

よって頭との距離が近いが、まだハゲてない🐽

建仁寺(京都) - Insta360

崇徳天皇御廟

「炭焼鰻 土井活鰻」に行く途中の通りにひっそりとあった。

日本三大怨霊にして、怨霊になった唯一の天皇と口コミにあった。

日本史を習ってないので、何をした人か知らない。

炭焼鰻 土井活鰻

一人がけの席が開いててすぐ座れたが、昼時ということもあって混んでいた。

韓国人や中国人の客もいた。

「一匹極上」(5,200円)に錦糸玉子(200円)を付ける。

最初、鰻に比してご飯の量が少ないと思ったが、鰻がまるまる一匹入ってるのでお腹いっぱいになった。

結局はお金を払っているのと同じだけど、クーポンだと早く消化しようと思うから、豪勢に使える気がする。

歩いて大丸京都店に行く。

四条通は韓国人や香港人がいっぱい。

やっぱキンペーに頑張ってもらって清零政策を維持してもらわないと。

大丸京都店のJINZで遠近両用メガネを作ろうと思ったら、1週間ぐらいかかって、送料がかかるというので、大阪に帰ってから作ることにする。

たいして歩いてないけど疲れたのでホテルに帰る。

Amazonプライムで「ビバヒル」がまもなく見放題終了になっているのに気付いて、ホテルに籠って倍速で見る。

高校白書は面白くて一気に見終わっていたけど、社会人になってからのシリーズはいまいち面白くなくて後回しにしてた。

中学から大学ぐらいまでかな、NHKでリアルで見てたときは、特になんとも思わなかったけど、今見返すと、グループ内でとっかえひっかえ付き合ってる乱交仲間ってことがわかった🐽

リアルで見てるときは一週間おきで間隔があいてたから、そんな印象を持たなかったのか、単純に自分が若かったからなのか。

結局、最後のシリーズ10を見終われなかった・・・。