おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.5万円、在宅勤務のハケン社員になりました

故宮博物院 投票日だから空いてると思ったのに

台湾総統の投票日。

4年前、投票日に阿里山に行ったらガッラガラだった。

先週から風邪をひいて体調が悪かったが、のどの痛みだけになったので、すいているかと思って台北故宮博物館に行くことにした。

zhizuchangle.hatenablog.com

授業で故宮博物院が制作した映画『經過』を見て改めて行きたくなった。

女優の桂綸鎂は、『不能說的秘密』にも出演していた売れっ子女優だったが、『經過』に出演している歳の離れた戴立忍と知り合って以来ずっと付き合っているらしい。

また蔭山征彥という日本人が出演しているが、流ちょうに中国語を話しているので、先生に彼の中国語にも日本人の口音があるのか尋ねたら「ある」と言っていた。


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台中を7時の統聯に乗って9時に台北に到着(290元)。

士林の故宮博物院往きのバス停に行くとけっこう観光客が待ってる😖

故宮博物院のチケット売り場で学生証を出すと、通常350元のところ、無料で入場チケットをくれた 🤩

中に入ると韓国人、日本人、タイ人など、団体の観光客が多い!

海外に行く日本人もだんだん増えてきてるのか。

國宝鑑賞

常に国宝を一点は展示してて、これは北宋四大書家の一人、米芾の書。

以下、囲み枠内の解説は国立故宮博物院より転載。

「致希声吾英友尺牘及び七言詩」

米芾(1051-1108)、書画をよくし、優れた鑑識眼を持ち、北宋四大書家の一人に列せられる。米芾の書法は「集古字」と言われる。古代の大家の筆法や書風を会得し、それを自作に応用できたことを意味している。
1092年の初夏、再び官職を得た米芾は雍丘(現在の河南省杞県)の県令となりました。それが米芾の生涯において最高の職位でした。研究によれば、この作品はおそらく米芾が官職に就いてから後に、李錞(1059-1109,字は希声)宛てに書いた手紙だと思われます。前半は相手の安否を尋ねる挨拶文で、おおよその意味は次の通りです。「非才の身でありながら重責を担っているため、それほど遠くもないのに、ご挨拶に伺うこともできません。最近、あなたがご両親のお世話をしていることを思い出し、一家団欒のひと時に話の種にでもなればと思い、小詩を一首お送りします。」後半に書いてある詩のおおよその意味は次の通りです。「我の前後に生えている竹とエンジュが午後になると木陰を作るので、以前は壺領や華胥のように麗しい場所をしばしば行き来していたことを思い出し、雅集を催したいという思いが湧き上がってきました。友人たちと和気藹々とした雰囲気の中で、身も心も寛いで伸び伸びできればと思います。」
この作品の文字には様々な姿態が見られます。例えば、「非」や「尺」、「吾」、「閑」などの文字は美しく整っています。「慶」や「然」、「還」、「領」などは左または右に傾いています。また、「音敬」や「英友」、「欲為」、「一身」などは、細い線で連綿と繋がる文字から才気が溢れ、滑らかで飛ぶような動感があります。「𡙇然」や「慶侍」、「奉寄」、「希聲」などは、髪に花を挿した少女のように美しくたおやかです。特に「槐」と「蔭」の2文字は強めに押さえた線に豊かなふくらみと重厚な味わいがありますが、姿態は軽妙な動きがあり、高度な筆技と造形性が見て取れます。一つ一つの文字がS字形に繋げてあり、「𡙇然比想」と「槐後午陰」は動感に満ちた行気を生み出しています。ひとまとまりの文字の間も引き締めや緩み、軽重の変化が見られます。例えば「為道增勝」は緊密ですが、「小詩」は緩んでいます。「往還」は軽妙ですが、「雅興」は重厚です。上述した変化は多くの場合、跳躍するかのように繋げられます。例えば「使一身閑」は重量感のある大字で、軽やかで小さな文字を覆うように書かれており、強烈な対比を生じさせ、唐突に動きが停止しています。このような短文の尺牘であっても、自身の極めて高度な妙技を最大限に発揮しており、米芾の満足感と自信のほどがうかがえます。

院蔵玉器精華展

明の時代に作られた「彫玉鰲魚花挿」。

清の時代に作られた「碧玉鰲魚花挿」。

この碧玉の花挿しは黄河の上流にある難所龍門を回遊する魚が跳ね上がり、奮闘する様子を表現したもので、魚が龍に変化するように、苦学する士人が科挙に合格し、一介の平民から官吏へと出世できるよう祝福している。小さな魚の頭部はまだ何の変化も見られず、下流で波にもまれているように見える。大きな魚にはもう2本の角が生え、龍への変化が始まっている。

 

 

後漢 「長楽」璧」

後漢 玉辟邪」

「清代 紫晶仙人」

古代青銅器の輝き

「殷中晩期 鉤連乳丁文羊首罍」

すぼまった口に丸い肩。肩には高浮彫りの羊頭のほか、扁平な鳥紋と俯く夔紋が配されている。器腹は鉤連乳丁紋と円渦紋、四弁花紋の装飾で埋め尽くされ、腹壁には鉤状の棱脊もある。この器の装飾には南方の地域的な要素が見て取れる。

 

「戦国 四牛鼎」

「春秋中期 子犯龢鐘」

西周早期 蟠龍獣面紋盉」(左)

外向きにやや開いた口には蓋が付いている。首は口縁の下ですぼんでいる。袋状の腹、管状の流(注ぎ口)、牛頭形の鋬(持ち手)、柱形の足が4本付いている。蓋は絡まりながら上へ登る立体的な龍形で、2本の足で身体を支える龍が蓋のつまみになっており、背を少し丸め、下顎を地につけている。器身は細密な紋飾で埋め尽くされており、首と流の先端は夔龍紋で装飾されている。袋状の腹は浅浮彫りによる4組の獣面紋で構成されており、足は蝉紋で装飾されている。蓋裏と鋬内に族氏銘文の「逆」という字がある。

 

西周早期 双龍紋簋」

小さな口、鼓腹、獣頭を象った半円形の耳に垂れ下がる方形の珥、圏足はやや外向きに広がっている。双龍をモチーフに装飾されており、蓋に対称的な柱状の角と巻貝状の角がある。双龍が絡みつく器身に蓋をはめると、龍頭と身体が組み合わさり、完全な図形となる。これに近い図飾はフリーア美術館(米国)所蔵の人面盉に見える。内底の「作宝彝」3文字は後に付けられたものである。

 

西周早期 祖乙尊」

西周早期に流行した大口の筒状尊。全体が3段に分かれている。大きく広がった口、器腹はやや膨らみ、高い圏足が付いており、下方で裾が広がっている。四方に透かし彫りの扉棱が4枚ある。口縁の外壁は尖葉形の簡略化された夔紋で装飾されている。その下に尾を巻いた夔龍紋がある。腹部は両面とも大きな獣面で飾られており、それぞれ二つある目と角、耳、口の端からむき出した牙が器表に突き出し、幾つもの突起を作っている。高い鼻梁は扉棱となり、獣面の立体感を高め、迫力を増している。腹に2本の弦紋があり、腹と高い圏足とを隔てている。その下は曲がった角を持つ獣面紋で装飾されている。雄偉かつ荘厳な雰囲気を湛える祖乙尊は、豊かで華やかな美しさがある。2行6文字の銘文「作祖乙宝尊彝。」には、ある人物(制作者名はない)が祖父乙のために、この貴重な祭器を制作したと記されている。

 

西周早期 召卣」

盛り上がった蓋にキノコ形のつまみが付いている。器体は楕円形で、外向きに開いた圏足が付いており、底付近でやや隆起している。全体に複雑で華やかな紋飾が施されている。蓋と器身は主に獣面と夔紋で装飾され、地は雲雷紋で埋められている。蓋と器身には鉤状の扉稜が4筋あり、持ち手には立体的な獣首(頭)が4個付いている。上方にある獣首の角はどちらも折れているが、下方の獣首には掌形の大きな角が付いている。蓋の裏に数字の銘文「六一八六一一」と、「召」という文字がある。

 

「商(殷)晚期~西周早期 亜醜方簋」

方形の器身。大きく開いた口、短い首。高さのある圏足は外向きに開いており、耳が二つ付いている。全体に扉棱がある。首と足の広い面は夔鳳紋、腹は獣面紋、足の狭い面は鳥紋で装飾されている。地は全て雲雷紋で埋められている。底に補強用の筋が残されている。器内の底に「亞醜」という族氏銘文がある。

 

「商(殷)晚期 蟠龍紋盤」

盤面に渦巻き状に身体を巻いた龍の装飾がある。龍頭は盤の中心にあり、僅かに盛り上がっている。盤の縁は夔紋と鳥紋、魚紋が一周している。外壁の紋飾は錆に覆われているが、俯いた夔紋のように見える。古風で荘重な作風は商(殷)代晩期の典型である。鋳造の痕を見ると、圏足内部と底の接続箇所に補強用の筋が6本あり、圏足と底の接合が補強されている。圏足に方形の足孔が三つあり、ちょうど範線の位置となっている。盤は青銅時代の重要な水器で、特にこの盤面の龍紋は複雑で美しく、身分の高い貴族が使用した礼器だったと思われる。

 

西周晚期 頌壷」

西周晚期 散盤」

この銅器は浅く大きな盤と高い圏足、二つの耳からなる。長尾夔龍紋が盤腹の外壁を一周している。重厚で典雅な趣があり、盤面にある350文字の銘文と互いに映えている。銘文には、夨国による散国侵略が失敗に終わり、夨国が領地を割譲することになった経緯が記されている。割譲される土地の範囲や実地検分を行った官員の職名などが詳細に記録されている。西周時代、散国と夨国は密接な関係にあり、友好的な頃は婚姻関係を結ぶにまで至った。散国は夨国の侵略行為を阻止し、賠償も得たため、この盤を制作して事の仔細を記録として残し、その功績を讃え、子々孫々に伝えることにした。

 

「殷後期 乃孫作祖己鼎」

硯の美

古代武器攻略

西周早期 虎首人面鳥爪管銎鉞」

縦21.3公分 横16.5公分
厚さ0.5公分 穴径4.1公分

円環形の鉞は西周になってから出現した新しい様式で、新石器時代以来の穴付き鉞の伝統を踏襲しているが、北方草原地域の管銎鉞の特徴も加えられている。この管銎は神人の紋飾で装飾されており、神人の頭上には神獣がしがみついている。この二つの青銅鉞はしっかりとした造りの上質なものだが、分厚い刃は切れ味が悪く、実戦に使えるものではない上、宗教的意味合いを持つ神人の紋飾もあることから、儀仗として使われたものと考えられる。

筆歌墨舞

「明 趙汝殷 風林群虎図」

趙汝殷(1436-1449に活動)が1441年に淮安府学訓導姚鵬(15世紀中期)のために描いた作品。山中で虎たちが川の水を飲んだり、前足をなめたり、木の幹に身体をこすりつけたりする様子が生き生きと描写されている。山石や小川、樹木の造形と画法も変化に富んでいる。虎の造形は本院所蔵の「元人画虎」と「騶虞図」、シンシナティミュージアムセンター(米国)所蔵の徐貴(1465-1487に活動)「乳虎図」に近く、毛皮の模様とヒゲは全て細かく丁寧に表現されており、おそらく明代初期の宮廷画家趙廉(1403-1424に活動)の画風が反映されている。

 

後漢 作者不明 四川新津崖墓人物画像石」

四川省新津県で出土した、後漢崖棺側面画像石の翻刻本。左右に3種の故事を表現した絵図が三つある。今回、展示する「孔子に会う老子」は目下のところ、四川では唯一の例である。一般的には、この故事は漢代の「尊師」、「問道」、「学聖」、「求仙」などの思想が反映されたものだが、これには老子(紀元前6-5世紀)と孔子(紀元前551-紀元前479)、弟子たちしか描かれておらず、内容もその他の地域で見られるものとは異なっていることから、何か特別な、まだ知られていない意味があるのかもしれない。

 

「唐 三彩馬球仕女俑」

土の百変化

「清 雍正 琺瑯彩柳燕碗」

「清 雍正 琺瑯彩紅地梅竹先春碗」

北宋 定窯 白磁嬰児枕」

「元 鈞窯 天藍釉紫斑盂」

「明 万暦 青花五彩百鹿尊」

唇口(玉縁)の百鹿尊、やや大きく開いた口、短く直線的な首、緩やかな曲線を描く肩、腰から僅かにすぼまる大きな胴、平らな底。口縁は2本の青い線で装飾されており、首は花や枝葉、桃の実の模様で飾られている。肩には青花で雲紋が描いてあり、茶色と緑色2色の飄帶紋が垂れ下がっている。中央の主紋は岩石や草叢、樹木、雲の間を縫うようにして、五彩の鹿の群れ89頭が描かれている。底近くには地面のような模様が一周しており、赤と緑が互いに映え、にぎわいを感じさせる。底は胎がのぞいており、中央のへこみにのみ釉がかけられ、「大明万暦年製」と青花で書かれた楷書体の款識がある。万暦年間は磁器の製造量が激増したため、朝廷の出費も膨れ上がった。主要製品は前期官窯の典型的な風格を継承しただけでなく、器形や紋飾、装飾技法においても発展を続けた。その中では、五彩に代表される各種の絵模様が盛んに描かれるようになった。題材は吉祥図案や仙人などのほか、仏教と道教に関連する模様が多い。『江西省大志』には、朝廷から求められた磁器制作に対する要求の詳細─器形や数量、装飾のモチーフなどが記録されており、当時の磁器発注に関するおおよその状況や規模が推測できる。特に万暦19年は様式の種類と制作数が最も多い年で、その年に制作が命じられた「五彩百鹿永保乾坤罈」は、この百鹿尊のような作品だった可能性が高い。

 

「清 18世紀 太平有象磁尊」

宝瓶を背負う象形の磁器。大きな象が4本の足で真っ直ぐに立ち、後ろを振り返っている。目を大きく見開き、鼻を巻き上げている。鼻の両側から長い牙が突き出し、耳はだらりと垂れ、尾は足を叩いている。背に元宝形の鞍を付け、その上に出戟磁尊を載せている。垂れ下がる分厚く長い緞子は、如意や吉罄、コウモリ、波涛、瓔珞、連珠紋などの模様で彩られている。象の身体は灰色がかった茶色の釉が施されており、部分的に濃い色で毛が描かれている。4本の足先は無釉で胎が露わになっている。出戟磁尊は青緑色の釉の地に、赤と緑で番蓮紋が描かれ、口縁に金が塗られている。この作品に落款はないが、器形と紋飾を見ると、乾隆朝で造られた可能性がある。鞍の緞子の模様は長寿や招福、開運を象徴し、象と宝瓶は「太平有象」(天下泰平)を意味しており、官様の造形に属する。磁胎のほか、銅胎掐絲琺瑯で作られたものもあり、対で陳列されている。

 

「清 乾隆 霽青描金游魚転心瓶」

内瓶と外瓶からなる転心瓶。長い首に豊かな肩、すぼまった胴、高台は低い。肩に円環形の耳が四つ付いている。胴は内外2層になっており、内瓶は淡い青緑色の釉で水中のような背景が表現され、水草や落花、金魚が粉彩で描かれている。底にも青緑色の釉が施されており、「大清乾隆年製」と青花で書かれた篆書の款識がある。外瓶の胴に4面の開光(額縁風の装飾)があり、首を握って回すと、外瓶の開光から内瓶に描かれた水草や金魚の模様が走馬灯のように回転し、金魚が悠々と泳いでいるように見えるため、「転心瓶」という名がある。

 

「清 乾隆 琺瑯彩龍舟胆瓶」(右)

丸く開いた口、口縁がやや盛り上がり突出している。長い首に丸い胴、底は平らで、低い高台が付いている。内外は白釉が施してあり、表面に楼閣や宮殿などの建物のほか、龍池を競いながら渡る船が描かれており、北宋以来、よく知られている「金明奪錦」の故事と一致している。絵図の旁にある題には「仙楼綺閣環瀛漢、鳳艑龍舸遶翠流」とあり、引首と句末に「寿如」と「山高」、「水長」─朱文と白文の印章三つが描かれている。高台裏の中心に青で書かれた「乾隆年製」4文字の宋体款があり、その周りに二重線の方形枠が書き加えられている。全体の画面の配置や組み合わせは、詩・書・画・印を一つの作品に融合させた雍正朝琺瑯彩磁器の制作法を踏襲しているが、より詳細に比較してみると、器形や紋様のモチーフに雍正朝作品とは明らかに異なる様式が出現していることがわかる。注目したいのは、乾隆3年(1738)と4年(1739)に、乾隆帝琺瑯彩磁瓶を制作するよう幾度も命じたとする記事から、乾隆朝琺瑯彩磁瓶の出現を間接的に知ることができる点で、これは器形に関する皇帝の好みの変化と関わりがある。伝世の画作と対照すると、元代の王振鵬の「龍池競渡図卷」に乾隆帝の題識「蘭亭修契暮春時、開放金明競水嬉、…」があることに気付く。また、この瓶の外側を飾る楼閣や宮殿、楼舟も王振鵬の画中に描かれた奪錦図に呼応しているように見え、琺瑯彩磁器に新しい装飾紋様が登場していたことを示している。或いは、乾隆帝清朝収蔵品の鑑賞を通して得た発想が、官窯の装飾紋様に影響を与えたことと関係があるのだろう。

 

「清 十七、十八世紀 陳子雲 彫橄欖核松陰漁楽扇墜」

高さわずか3cmの橄欖の種にぐるりと連続した風景が彫られている。岸辺の松の木の下に二艘の漁船が停泊しており、船の乗客が岸辺の人と歓談しながら酒を飲んでいる情景が浮き彫りで表現されている。大きさこそ小さいものの、高浮き彫りや透かし彫りをうまく運用し、彫刻のテーマと人物の表情を生き生きと伝えている。松の木や船舶などの細部の描写は極めて凝っており、斧劈皴で岩肌の質感を表し、陰刻の細い線を用いて遠景の山々を表現している。作品全体が細緻を極め、表現手法においては竹彫に見られるような奥行き感をはっきりと出しており、同時に山水画のような広がりのある空間も持たせている。この彫刻作品には「庚辰孟夏望前 陳子雲製」の款が刻されている。陳子雲は清代初期の蘇州一帯の彫刻家と考えられており、同時に展示されている「松下高士」及び「花卉」の橄欖の果核彫刻作品からもわかるように、彼は構図と彫刻技法を巧みに運用しながら、詩や絵画の境地を彷彿させる小さな空間の創造したのである。

 

台北駅の構内でシナモンロールを購入。

カードタッチ決済したら、家に帰ってからレシートを見たら、2つしか買ってないのに3つ分請求されてた🤬

「てつおじさんのチーズケーキ」も買った。

故宮博物院で歩き疲れて小籠包を食べにいく気力がなく、台北駅前でワンタンを食べる(80元)。

ワンタンを食べるあいだに、16時20分台北発のバスを予約しておいた。

バスターミナルにいくと、週末にも関わらず閑散としてて、バスもガラガラだった。

家について、総統選の速報を見る。

2週間前ぐらいは国民党の侯友宜が追い上げてたので接戦になるかと思ったが、結局は民進党の頼清徳が逃げ切った。

国民党元総統の馬英九が「習近平は信用できる」とか爆弾発言して、侯友宜を背後から撃ったりして伸び悩んだか。

中国が望んでいなかった民進党政権が連続3期続くことになる。

建国した毛沢東、改革開放した鄧小平を超えたい習近平は在任中に武力でも統一しようとすると思う。

留学を切り上げて日本に帰ろう。
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