全国旅行支援があったから京都に来たけど、別に目的はなかった。
それに暑いタイから帰ってきたら日本は寒くてあまり出かけたくなかった。
かといって、ずっとホテルに引きこもってるのもなんなので、京都トレイルを回ることにした。
アプリ「YAMAP」を使う前に地図を頼りに一周してるけど、YAMAPで記録に残そうと、前回は伏見から大文字山を下ったところにある標識「東山48」まで歩いている。
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前回の終点を起点にすると、以前と歩いたのと同じ方向になって面白くないので、鞍馬から時計回りに前回の終点まで歩くことにした。
- 09:30 鞍馬駅
- 10:50 江文神社
- 11:45 仰木峠(573m)
- 12:15 水井山(793m)
- 12:30 横高山(767m)
- 13:05 西塔
- 13:25 東塔
- 14:20 大比叡(848m)
- 14:45 ケーブル比叡駅
- 15:15 水飲対陣之跡碑
- 16:00 瓜生山(301m)
- 16:15 大山祇神社
- 16:30 哲学の道
- 16:50 霊鑑寺
09:30 鞍馬駅
鞍馬寺にお参りしたい気もあったが、遅くなるし、疲れるのでパス。
標識「北山43」からスタート。
落ち葉がいっぱい。
落ち葉の下にある石が見えないので、ちょっと歩きにくい。
昔、伝教大師が鞍馬で薬王如来の像を造り、比叡山に帰ろうとしてこの坂を越えたとき、薬王がその姿を現したことから「薬王坂」とつけられたと言われている。
「薬王坂阿弥陀二尊板碑」
2年前に通ったときは、木の根元に倒れて埋もれかかっていたが、誰かが引きずり出したようだ。
貞治三年(1364)南北朝時代後期に彫られた石仏が刻まれている。
その近くにあるログハウス。
小学生や中学生のときはこういうのに憧れたな。
今なら、虫が嫌いだし、不便だから、まっぴらごめん。
坂を下りて静原の集落に入る。
「静原神社」にお参り。
神社の鳥居が見えるが、その奥に社はない。
本当は、ここで車道に沿って少し右に曲がらないといけなかったようだが、間違って直進してしまう。
「江文寺の跡」とあるので、昔は寺があったのか?
10:50 江文神社
少し遠回りしてしまったが、遠回りしたついでに江文神社にお参り。
登山者の皆さんへ
金毘羅山の岩場及び周辺の山域に入山される登山者の皆さんは次の事項を必ず守ってください。
1.江文神社の駐車場及び参道には車を駐車させないでください。
2.江文神社の絵馬堂には立入らないでください。
3.タバコのすいがらなどの火の始末は完全にしてください。
4.空きカン、空きビンなどゴミはず持帰ってください
と書かれた看板があった。
最近、兵庫県西宮市にあるお寺『鷲林寺』は、境内の公衆トイレを利用するハイカーのマナーがあまりにも酷すぎるためトイレの撤去を決定したというニュースを読んだ。
先進国から脱落して、民度も下がってるってことか。
江文神社からだいぶ離れたところに「一の鳥居」(たぶん)があった。
大原三千院のある大原地区を横切って、ここから先はずっと山道を歩く。
仰木峠まで、延々とボーイスカウト道を登る。
今回のコースで一番しんどいポイント。
前回は反対周りだったので、ここを下るときに親指が痛くなった。
たしか、そのときも親指の爪が死んだ。
汗が噴き出してきて、長袖の速乾Tシャツ1枚になる。
トレーナーを腰に巻いてたら、汗でびしょびしょになってた。
もう12月なので、平らな道や下り坂になると寒くなって、ウインドブレーカーを着た。
11:45 仰木峠(573m)
長い上り坂でお腹が空いたので、おにぎり二個を歩きながら食べる。
柵がついた平坦な道があったが、京都一周トレイルから外れていた。
水井山と横高山を迂回して、横川中堂に行けるっぽい。
京都一周トレイルは、こっちの悪路の上り坂 😬
12:15 水井山(793m)
12:30 横高山(767m)
水井山を下りて、また登ったら横高山。
木の根が階段になってる。
夫婦と思しき高齢者がひーひー言いながら登っていた。
私は70歳ぐらいになったらもう登れないと思う。
横高山を下ると元三大師道の三体の仏像がある。
ここから車道を横切って、横川に行ける。
今回はパス。
西塔から横川まで尾根づたいに通 る峰道のほぼ中間の地点。
回峰行者はここで止まって、御所に向かい、王体加持 (天皇のご安泰をお祈りする)をするらしい。
この木を「玉体杉」という。
13:05 西塔
釈迦堂は拝観料がいるので、外から撮っただけ。
常行堂(左)・法華堂(右)
浄土院(伝教大師の御廟)
比叡山の開祖、伝教大師最澄上人のご廟所で、比叡山中で最も清浄な聖域です。
大師は一生を大乗戒坦院の独立に捧げられ、弘仁十三年六月四日(八二二)中道院に於て、五十六歳で入寂されました。弟子の慈覚大師円仁が、仁寿四年七月(八五四)この地に中国五合山竹林院を模してご廟所を建立し、大師の御遺骸を祀り、以来ご廟を守る僧侶を侍真といい、一生山を降りない覚悟で昼夜を分かたず、厳しい戒律のもとに身心を清浄にして、生身の大師に仕えるように、今も霊前のお給仕に明け暮れしています。
またご廟前玉垣の辺りには、沙羅双樹と菩提樹が植えられ、極楽浄土の雰囲気がかもし出されています。
侍真は、早暁より薄暮まで勤行と掃除勉学修行に励んで、十二年間山を降りない籠山修行の内規に則って、生活しています。
たぶん、山を下りるときはかつらをかぶってるんだと思う🐽
最澄といえば、空海から密教の経典を借りられなくて絶交したとか、その手の話は面白いからちゃんと覚えてる🐽
山王院堂は、雲母坂をあがってきたら最初にある寺院。
左の黒い小屋は「弁慶水」。
13:25 東塔
結局、拝観料を払って東塔に入った(1,000円)。
さっきの釈迦堂とセットなので、入っとけばよかった。
東塔内の仏像。
阿弥陀堂。
大講堂。
親鸞とか日蓮とか、天台宗に関わりのある僧侶の仏像が置かれている。
他の人が鐘を鳴らしていたので、自分も鐘を打つ。
鳴らしたあとで、一回50円と書かれているのに気付いた😬
根本中堂はまだ工事中。
中に入って、屋根の葺き替えを見られる。
戒壇院
天台宗の僧侶にとって、特別な場所である。開祖・伝教大師最澄の志を継いで仏の道に進む決意をし、そのための「戒」を授かる授戒の場だからだ。 天台宗の僧侶とて、この堂に入るのは生涯に一度きり。法華の世界にいらっしゃる釈迦如来を前にし、 先達とも言える文殊・弥勒菩薩に見守られながら、天台座主を伝戒師として「戒」、すなわち「いましめ」を受ける。
14:20 大比叡(848m)
そういえば、比叡山の山頂には行ったことがなかったと思い、阿弥陀堂の裏にある山頂に向かう道を登っていく。
比叡山には、3回ぐらい登ってるけど、山頂にきたのは初めて。
お堂とかがあるわけでもなく、ただの山頂。
反対側に下っていくと、広い駐車場があって、「ガーデンミュージアム比叡」とロープウェイ山頂駅があった。
鞍馬方向からから歩いたもう一つの理由は、もし膝が痛くなったら、ロープウェイとケーブルで下りられるから。
京都市街方面。
雲が出てるときの写真って、綺麗に撮れない。
さらに下って、また京都一周トレイルのコースに戻った。
見えてるのは大原の集落かな。
14:45 ケーブル比叡駅
いつも歩いて登ってくるので、ケーブルもロープウェイもまだ乗ったことがない。
ケーブル駅横の展望台。
「やどり地蔵」にお参り。
やどり地蔵の前は見晴らしがいい。
たぶん土砂崩れで一斉になぎ倒された跡。
以前に置いてあった仏像の頭と違ってる気がする。
「浄殺結界趾」ここから先は女人禁止だった。
15:15 水飲対陣之跡碑
後醍醐天皇の近臣であった千種忠顕が足利尊氏の弟直義と戦って戦死した地。
時間的にもう雲母坂を下りて修学院から電車で帰るつもりだった。
でも、まだ体力的に歩けそうなので、思い切って、京都一周トレイルの前回の終点まで歩くことにした。
元の道が崩れたようで、渓流に下りて渡ることもできるが、バランスをとりながら丸太の上を渡る。
次の渓流は橋がかかっている。
鳥居に神社の名前が書かれていない。
太陽が傾きかけているので、日が暮れるまでに市街地に出られるのか不安になって速足で歩く。
もし山の中で日が暮れたら、スマホのライトしかない💧
今日の写真の中で一番綺麗に撮れた遠景。
16:00 瓜生山(301m)
やっと瓜生山の頂上に着いた。
ここから先は、YAMAPの地図をダウンロードしてなかったので、京都一周トレイルの標識に頼るしかない。
この先、どのぐらい距離があったかも覚えてない。
日没は4時45分ぐらいなので、かなり焦りモード。
お堂の後ろに、元勝軍地蔵石室がある。
瓜生山山頂には、室町時代になると再々城郭が築かれ、南の如意ヶ岳城と共に足利将軍家、細川管領、三好長慶、松永久秀らが攻防をくり返した。
近江の戦国大名六角定頼がここへ安置したという勝軍地蔵は、江戸時代に入っても痘瘡無難の守りとして庶民の信仰深く、北白川門跡寺照高院二品忠誉法親王は山路険咀を案じて、宝暦十二年(一七六二)九月現在の勝軍地蔵山に石像を移された。これは今のバプテスト病院の西山である。そしてこの山頂にはお地蔵を安置した当時の石室だけが、奥の院と呼ばれる朱色のお堂の後方に残されている。
今、祀られているのは、勝軍地蔵ではないということか。
将軍地蔵尊と書かれている。
下り道には、うばけい童子、はりか童子、ぜんにし童子、ふこうおう童子の石像。
三十何番とあるけど、四体しかわからなかった。
さらに下ると白幽子居之跡がある。
この先、トレイルの標識もなく、道も落ち葉で隠れて、本当に道があっているのか不安になりながらも、下り坂なので間違ってないだろうと思って進む。
白幽子居之跡(夜船閑話發祥之地)
白川の隠士、松風窟白幽子が厳居した跡である。白幽子の名は慈俊、石川丈山の弟子となり、兄の克と共に丈山に事え丈山の死に水を取り、晩年ここに隠棲した。又ここは白幽子が内観の法を白隠に伝授した所謂「夜船閑話」発祥の地でもある。
「夜船閑話」は、後に臨済禅中興の祖と尊崇される白隠禅師(1685-1768)が白幽子によって肺病を治癒した体験の名著である。この著書で白幽子の名と内観の秘法とは日本中に広まった。
白隠は二十六才頃打ちつづくく寝食を忘れる猛修行で身心の調和が破れ、肺金焦枯の病を患った。今の肺病である。旅で美濃に在った白隠は人口から、京都比叡山麓白川に白幽子と名乗る一仙人があって稀代の医方により肺金を救うと聞き、直ちに白川に来て山中を尋ねこの厳窟に到った。厳窟の奥深く白髪は長く膝に垂れ、軟かい草のしとねに坐る白幽子に相見を許された。一見して白隠の偉相を観た白幽子は初めて白隠に内観気海丹田の法、人身長寿の秘訣を余すことなく伝授した。時に宝永七年(1710)正月半ばのことである、白隠はこの秘法によって起死回生して明和五年(1768)八十四才まで生した。
明治の南画家富岡鉄斎百錬居士は夙に禅を学び、白幽白隠両祖対面の霊地保存を発起して、明治三十九年十月自ら建碑して、表に「白幽子厳居之跡」と書し、裏にその事績を記した。そしてこの厳居と白幽子が日常飲んだ清泉の不朽を計った。
今も厳居の前に建つ碑がそれである。残念なことに戦後心無き者がこの碑を傷けた。然し禍を転じて福となすことなって、これを機にこの霊跡の保存と顕彰が京都円町の臨済宗妙心寺派法輪寺の前住職伊山和尚によって進められた。
今の臨済禅の発展は白隠禅師を外して語ることはできない。その白隠禅師蘇生の大恩人が白幽子である。ひしひしとこの霊跡の重みを感じる。
16:15 大山祇神社
建物が見えたときは、本当にホッとした。
上の建物は、大山祇神社の建物だった。
少し下ると「日本バプテスト病院」があって街中に出られた。
地龍大明神
山の主神として龍神が祭祀されています。太古湖底であった山城盆地最初の先住者が近在に集団生活を営んでこの山に親しみ後に祠を立て山の主神に平穏無事を祈りました。その後に神道仏教が盛んに行われて社寺が多く建立され、この山に兵火が及んだりして混乱の世が長く続きいつしか祠は跡かたも無く山は荒廃しました。昭和四年御神託を得てこの社が創建され森厳靜寂な太古の如き神苑が復元されたのです。徳川時代禪の究明に悩まされた青年「白隠」がこの山中で神助を得、修練よく勉められ禪師となられました。
「北白川天神宮」があったけどもう立ち寄らず。
京都一周トレイルの標識を見落とさないよう、道の周囲に目を配りながら歩く。
16:30 哲学の道
前回の標識を探しながら、哲学の道を歩いていく。
16:50 霊鑑寺
哲学の道の十字路になるたびに標識を探すが標識が見つからない。
前回のYAMAPの記録を見直すと、霊鑑寺のほうから下りてきていた。
標識は霊鑑寺の前にあった。
前回の終点に到着したのでゴール!
歩き疲れてへとへとになったけど、ちゃんとテーピングしてサポーターもつけていたためだと思うが、膝痛にはならなかった。
バスで座って帰れるだろうと思ったら、5番の市バスは途中で乗客を乗せられないぐらい満員だった。
ココ壱番屋で株主優待でカレーをたべ、スーパーフレスコで全国旅行支援のクーポンで夜食を買って、ホテルに帰る。
平均ペースが170~190%なのは、夕暮れが迫っていて急いで歩いたのも影響していると思う。
上り坂が長くてしんどかったのはボーイスカウト道だが、アップダウンでトータル1700mも登ってる😬
京都一周トレイル(鞍馬〜大比叡〜哲学の道) / ちゃんらーさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
一日で約5万歩!4,648カロリーも消化!
なお、70㎏近辺だった体重はタイから帰ってきて67㎏まで減っている🤭