おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.6万円、半分在宅勤務のハケン社員になりました

第4章 ジョン・レイトン・スチュアート

ジョン・レイトン・スチュアートというのは、日本じゃ全然有名じゃないけど、中国じゃ知らない人はいないぐらいの有名なアメリカ人らしい。

最近の若い中国人はどうか知らんけど。

毛沢東の書いた≪别了,司徒雷登≫という文章で、アメリカ侵略主義の失敗の象徴として一躍有名になったのだそうだ。

追放されただけで、拘束されたんじゃないなら全然いいんじゃないだろうか。

今は、海外でも中国政府を批判したら、中国や香港に入ったときに逮捕されるらしい。

私は親中・新台の蝙蝠路線で行く🐽

そのうち、香港と中国に行くよん(たぶん)。

更是中国人的美国人

司徒雷登的父母都是早期到中国的美国传教士,从血统上说,他是纯粹的美国人。然而用司徒雷登的话来说,自己“是一个中国人,更多于是一个美国人”。

他出生在中国杭州,一口流利的杭州话说得甚至比英文还要好。在杭州的饭店里,他点起菜来有板有眼,把伙计都能听了:件儿要瘦,肥了倒胃:木郎豆腐多放胡椒,要烧得入味・・・・“件儿”指五花肉,“木郎豆腐”指鱼头豆腐,这些话不是杭州人脱听不大懂的。 11岁到美国弗吉尼亚州上学时,司徒雷登还曾被同学讥笑为不会说英语的怪物。

1904年,司徒雷登携妻子回杭州传教,直到1949年作为驻华大使返回美国,他几乎一直生活在中国。1945年,司徒雷登曾在重庆见到中国驻美大使顾维钓。顾维钓说:“我在美国生活了20年,美国是我的第二故乡。”司徒雷登笑了笑说:“我出生在中国的天堂杭州,在中国生活了45年,中国是我的第二故乡。”这并不是作秀,而是司徒雷登的真诚流露。他的父亲,母亲和一个弟弟都葬在杭州北京大学校园内的未名湖畔还安葬着他的妻子。他一生的事业,心血都在中国,他怎能割舍下对中国的留恋?1946年,司徒雷登被授予杭州市荣誉市民的称号,并拿到了象征荣誉市民的金钥匙。如今,这把钥匙还静静地躺在杭州的司徒雷登故居。2008年11月17日上午,在低沉的音乐声中,司徒雷登先生的骨灰被轻轻安放杭州安贤园,墓碑上写着:司徒雷登,1876-1962,燕京大学首任校长。

燕京大学的首任校长

1919年,北平的两所教会大学合并为燕京大学,司徒雷登出任燕大第一任校长。初创中的燕大,规模很小,学生只有94人。经费严重不足。司徒雷登一边改善原有的小摊子,一边策划另起炉灶。那些日子里,司徒雷登忙得不可开交,要拼命筹款,又要指挥在新校址建校,又得为扩大后的学校招兵买马,还得维持日常的教学工作。经过数年建设,新校址于1929年正式投入使用。新建的燕京大学校园融合了中西文化,是司徒雷登的得意之作。他自豪地说:“凡是来访者,无不称赞燕京大学是世界上最美丽的校园。它有助于加深学生对这个学校及其国际主义理想的感情。”他还不惜重金聘请中外著名学者来燕大任教,提升燕大的知名度和学术地位。1927年。燕大与哈佛大学合作成立了著名的哈佛燕京学社,以促进中美文化交流。

司徒雷登在燕京大学主持校政的27年里,中国正处于危急存亡关头,青年学子纷纷投入到挽救国家的爱国运动中。对此,司徒雷登一直持同情,支持态度。九一八事变后,他曾亲自带领数百名燕京大学的师生上街游行,抗议日本对中国的侵略。他对全校师生说:“燕京大学不是’世外桃源’,不能’两耳不闻窗外事’,而是要关心国家大事“。正如≪燕大周刊≫一篇文章所说:”司徒先生自己虽不是一个中国人,可是他对中国的厚爱,并不亚于我们,・・・・他所愿望的是全世界的自由与平等,他所企慕的是全人类的博爱和平,他不愿让公平屈折,他不愿让真理隐藏・・・・”。

太平洋战争爆发后,燕京大学即被日军封闭,司徒雷登等人被拘押,三年后,司徒雷登才重获自由。

1952年,经调整,合并,在燕京大学旧址上成立了今天的北京大学。如今,北京大学血脉中还依稀可见燕京大学的传统与文化。司徒雷登致力于中国的教育事业,为此倾注的心血,中国人不会忘记,也不应该忘记。

失败的驻华大使

1946年7月,司徒雷登被任命为美国驻华大使。他促成中国的和平己任,痴迷于组建中国的联合政府。后因内战全面爆发,他的努力失败了。1949年8月,司徒雷登黯然离开生活了45年的中国,从此再也没有踏上中国的土地。其后,毛泽东发表≪别了,司徒雷登≫一文,将他作为当时美国的象征而极尽讽刺,说他是“美国侵略政策彻底失败的象征”。“司徒雷登”这个名字也因此家喻户晓,同时也成了声名狼藉和失败的代名词。

据说在他离开中国前夕,曾经和中国共产党高层秘密接触,也打算前往北京磋商美国承认中华人民共和国政府事宜,但因被提前召回,未能成行。

司徒雷登于1962年9月19日在华盛顿病故。他在遗嘱中希望能够将骨灰送到中国,那个令他魂牵梦绕的地方。46年后,司徒雷登终于回来了,回到了他的出生地。

有历史学家这样评论他:“整个20世纪,大概没有一个美国人像司徒雷登博士那样,曾长期而全面地卷入到中国的政治,文化,教育各个领域,并且产生过难以估量的影响。”今天,中美关系已成为世界上最重要的双边关系之一,两国人民在文化,经贸等各方面的交流日益加深,这也是对逝者最好的慰藉

有板有眼:拍子に合っていてリズミカルだ.

伙计:店員,従業員,売り子,ウェーター

愣:(びっくりしたり,慌てたり,別の事を考えたりして)あっけにとられる,

倒胃口(dǎo wèi・kou):(食欲を減退させる→)食べ飽きて嫌になる.

入味:味が出る,味がよくなる.

五花肉:バラ肉

讥笑(jīxiào):嘲笑する,あざ笑う.

作秀:パフォーマンスをする

湖畔(húpàn):湖畔

割舍:捨て去る,割愛する,手放す.

授予(shòuyǔ):授与する

安放:(物を適当な場所に)置く,据える.≒置放.

合并(hébìng):併合する,合併する.

出任:任務・官職に就く,就任する.

初创:創立したばかりである.

策划:画策する,策を巡らす.

另起炉灶(lìng qǐ lúzào):別に一家を構える,別の手段を講じる

不可开交:どうにもけりがつかない,身動きならない,のっぴきならない.

筹款(chóu):金策する

指挥(zhǐhuī):指揮する,監督する,整理する.

招兵买马:兵士を募り馬匹を買い入れる

融合(rónghé):融合する

凡是(fánshì):すべて…

无不:…でないものはない,

有助于:~に寄与する

重金:大金,多額の金銭[をはたいて…する].

聘请(pìnqǐng):招聘する,招く.↔解聘,辞退

主持:主催する,つかさどる,取り仕切る,責任者となって事に当たる.

危急存亡(wáng):危急存亡

关头:瀬戸際,分かれ目,山場,正念場.

纷纷(fēnfēn):絶え間がない,続々と続く,次から次へと続く.

挽救(wǎnjiù):救い出す.

带领:率いる,引率する.

师生:先生と生徒

世外桃源:(比喩的にも)浮き世を離れた別天地,桃源郷

企慕(qǐmù):敬慕する,仰ぎ慕う.

屈折:屈折する

爆发:(戦争・革命・闘争・運動・感情などが)爆発する,勃発する.

拘押(jūyā):拘禁する

血脉(xuèmài):血縁,血統,血のつながり.≒血统,血缘.

依稀:ぼんやりとしている,かすかである.

致力于:尽力する

倾注(qīngzhù):傾注する,打ち込む,傾ける.

促成(cùchéng):促進し成功させる.

痴迷于:夢中になる

组建:組織して作る

黯然(ànrán):(悲しくて)心が晴れない,暗然とする.

极尽:極めつくす

家喻户晓(jiā yù hù xiǎo):家ごとに知れ渡っている,多くの人々に知られている.

声名狼藉(lángjí):(書き言葉に用い;悪名が)広まっている.

磋商(cuōshāng):折衝する,協議する.

事宜:物事の状態・事情

召回(zhàohuí):(派遣した人を)呼び戻す,召還する.

病故:病死する,病没する.

遗嘱(yízhǔ):言い残した遺言,書き残した遺言状.⇒遗言 

魂牵梦绕(hún qiān mèng rào):夢の中をさまよう

卷入(juǎnrù):巻き込まれる.

估量(gū・liáng):計る,見積もる,判断する.

逝者(shì):亡くなった人

慰藉:慰謝する,慰めねぎらう.