今日のスピーチのテーマは「來台灣最驚訝的事情」。
先日書いたとおり、初の海外旅行で訪れた中国の印象が強烈すぎて、2年後に訪れた台湾は日本の影響を受けすぎてて、変(訝)だと思うことはあっても、驚くほどのことはなかった。
それに、当時の中国の様子を紹介したかったので、中国のびっくりしたこと(1988年版)にすることにした。
日本語で要点だけまとめて、国語の原稿は用意せずぶっつけ本番。
却って、原稿の筋書きを気にせず楽に話せた。
オランダ人男性はまた休み。
あちこち痰壺があった
中国に行ったのは夏休みで、Tシャツに短パンという恰好だったが、それでも中国人と日本人は簡単に見分けがついた。
それぐらい身なりの汚い中国人が多かった。
そして駅とか公園のあちこちに「痰壺」が置いてあるだけでなく、道路には中国人が吐いた痰の跡がいたるところにに残っていた。
まだ「租借地」があった
当時、外国人が泊るホテル、および友諠商店は一般の中国人が泊ることどころか敷地内に入ることすら許されなかった。
友諠商店では外国人向けの土産物や輸入品を売っていた。
しつこい中国人に付きまとわれたときは、どこかのホテルに入れば、中国人はそれ以上入ってこれなかった。
中国なのに中国人が入ってこれないので、一種の「租借地」だと思った。
二種類のお金があった
当時は外国人が外貨を両替すると「人民幣」じゃなく「兌換券」を渡された。
街中の商店や食堂で使うときは、人民幣と兌換券は同じ価値。
でも、兌換券は友諠商店で輸入した電化製品を買うことができた。
よって、額面の価値は同じでも、実質的な価値は違ってて、街を歩いていると「チェンジマネー」とよく声をかけられ、付きまとわれた。
交換比率は、兌換券100元が人民幣180元ぐらい。
外国人旅行客にとっては、町中で使う分にはどちらでも関係なく使えて、お金がほぼ2倍に増えるので喜んで交換した。
一度、相手が先に人民幣1800元数えて、今度は私が自分の兌換券1000元数えてから交換したら、後で数えたら900元しかないことがあった。
私が自分の兌換券を数えている間に半分を隠したのである😖
騙されたときはへこむけど、こういったトラブルのほうが後で思い出に残る。
多くの中国人は日本人が嫌い
これは初めて行ったときじゃなくてその5年後ぐらいのこと。
もう兌換券も租借地もなくなっていた。
ある中国人と知り合って、ホテルで話しているとき、一台のテレビで戦争ものの映画かドラマを放送していた。
何気なく「あれは何の内容?」と聞くと、「抗日戦争の話だ」と言われた。
続けて「多くの中国人は日本人が嫌い」と面と向かって言われた。
戦争は過去のことだと思ってて、まだ純粋だった私はその言葉にすごく衝撃を受けて言葉を続けることができなかった。
その後、日本のことを「小日本」と呼んだり、日本人を「鬼子」と呼ぶのを知る。
同じ民族なのに台湾人は日本人大好き!
ここで、あ、そうだ、中国人との対比で台湾人は同じ民族なのに日本人が大好きなことを「來台灣最驚訝的事情」にすればいいんだと思いついた💡💡💡
言歸正傳。
前置きのほうが本題より長くなったけど、台湾人は日本人や日本文化が大好きで「哈日族」という言葉まである。
大昔、スマホがない時代、台北で捷運に乗って立って文庫本を読んでたら、制服を着た一人の高校生が目を輝かせながら「日本人ですか?」って声をかけてきたことがあったっけ・・・。
老師は、両親が北京あたり出身の外省人ということで、ちょっと微妙な内容かと思ったけど、35年前の中国の様子は知らなかったので、とても興味深かったと言ってくれた。
「三十年河東、三十年河西」と言ったら、そんな言葉まで知ってるのと言われた😚
もちろん、前置きが長すぎて、本題が短いとしっかり指摘された。
スピーチは、ポーランド人女性が、毎回、内容がまとまっているし、スピーチも手振りを交えて表情豊かで一番うまい。
まあ、私なんか日本語で話しても要領を得ない話しかできないから、話力はいまさらどうしようもない。
次回のテーマは「給人贊美還是批評」。
これまた、1~2分しか話す内容が思いつかない・・・。
授業が終わったあと、またチベット人留学生と「中興素食餐廳」に行く。
ぬあんと17歳まで中国で生活していたのだと。
確かに、前回、山を越えてインドに渡ったと言ってたっけ。
もう長いものに巻かれろでいいやん、ダメ?