おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.5万円、在宅勤務のハケン社員になりました

【台湾留学】テキストがずっと難しくなった

金曜日なので必須科目が3時間ある。

授業前に、ポーランド人の秀媛がポーランドのお菓子とキーホルダーをくれた。

遠路はるばるポーランドからボーイフレンドが会いに来ているので、持ってきてもらったのだろう。

ボーイフレンドは授業中は出かけず家で留守番してるらしい。

キーホルダーはポーランド製で「Bolek and Lolek」という有名なアニメキャラクター。

兄弟がいて、タイ人の小丫がもらったフィギュアは頭が禿げている感じだったので兄と思ったら、私のもらったのが兄だった😜

私も日本に帰っていたので、「和洋菓子団らんミックス」とか田舎の土産とか、5種類ぐらい買ってきて毎朝1つずつ配ってる。

レベル8で使っていた『時代華語』は簡単すぎるというので、陳老師が新しいテキストを5種類持ってきた。

どれか一つのテキストということはなく、各テキストからみんなが関心のあるテーマをピックアップして、老師がコピーしてくれることになった。

私は「投資」とか「景気」とかの話題が好きだけど、他の生徒は興味なし。

別の生徒は中国文学の話題がいいと言ったが私は反対にあんま興味なし。

今日の授業は前日に配ってくれた「胡適」という人の短文。

文章は最後に記載したが、今までのテキストよりずっと難しい。

胡適って聞いたことがあるようなないような・・・。

胡適の母親はある金持ちの後妻で、嫁いだ時には相手はもう老人で、23歳にして未亡人になってしまうが、前妻の長男と次男は恐らく胡適の母親より年上か同じぐらいの歳で妻がいて気苦労が多かったとのこと。

各自で文章を読んで筆記で問題に回答してという感じで、ほとんどトークの時間がなかったが、来週以降はどうなるんだろう。

台湾入国キャンペーンで当たった5千元は有効期限(12月末まで)があることがわかったのでさっさと使い切らないといけない。

カルフールにあるモスバーガーで昼食をとって悠遊カードで払う。

そのあとカルフールでズボンでも買おうかと思ったが、サイズ表記が異なることに気づいた。

これは台湾方式?ヨーロッパ方式?

SMLとかウエストサイズ(㎝)ってないのか???

カルフールにはデカサイズで88元のシャンプーがあるのを発見。

もう今からこんなにたくさん要らないけど。

売ってる中でも安い台湾製のシャンプーとリンスを購入(各118元)。

近くの小学校は今日が運動会らしい。

運動場は建物の反対側なので見えなかったが、門の前に花輪が飾ってあった。

花輪の中央には四文字熟語で「圓滿成功」や「校運昌隆」と書かれている。

(追記)運動会は翌日だった。運動場が狭い!

母親的教誨  胡適

  每天天剛亮時,我母親就把我喊醒,叫我披衣坐起。我從不知道她醒來坐了多久了。她看我清醒了,才對我説昨天我做錯了什麼事,説錯了什麼話,要我認錯,要我用功讀書。有時候她對我説父親的種種好處,她説:“你總要踏上你老子的腳步。我一生只曉得這一個完全的人,你要學他,不要跌他的股。”(丟臉、出醜)她説到傷心處,往往掉下淚來。到天大明時,她才把我的衣服穿好,催我去上早學。學堂門上的鎖匙放在先生家裏;我先到學堂門口一望,便跑到先生家裏去敲門。先生家裏有人把鎖匙從門縫裏遞出來,我拿了跑回去,開了門,坐下念生書。十天之中,總有八九天我是第一個去開學堂門的。等到先生來了,我背了生書,才回家吃早飯。
  我母親管束我最嚴,她是慈母兼嚴父。但她從來不在別人面前罵我一句,打我一下。我做錯了事,她只對我一望,我看見了她的嚴厲眼光,就嚇住了。犯的事小,她等到第二天早晨我睡醒時才教訓我。犯的事大,她等到晚上人靜時,關了房門,先責備我,然後行罰,或罰跪,或擰我的肉,無論怎樣重罰,總不許我哭出聲音來。她教訓兒子不是藉此出氣叫別人聽的。
  有一個初秋的傍晚,我吃了晚飯,在門口玩,身上只穿着一件單背心。這時候我母親的妹子玉英姨母在我家住,她怕我冷了,拿了一件小衫出來叫我穿上。我不肯穿,她説:“穿上吧,涼了。”我隨口回答:“娘(涼),什麼!老子都不老子呀。”(おかんがなんや、オヤジだってもう俺を管理できないぞ)我剛説了這句話,一抬頭,看見母親從家裏走出,我趕快把小衫穿上。但她已聽見這句輕薄的話了。晚上人靜後,她罰我跪下,重重的責罰了一頓。她説:“你沒了老子,是多麼得意的事!好用來説嘴!”她氣得坐着發抖,也不許我上牀去睡。我跪着哭,用手擦眼淚,不知擦進了什麼微菌,後來足足害了一年多的眼翳病。醫來醫去,總醫不好。我母親心裏又悔又急,聽説眼翳可以用舌頭舔去,有一夜她把我叫醒,她真用舌頭舔我的病眼。這是我的嚴師,我的慈母。
  我母親二十三歲做了寡婦,又是當家的後母,這種生活的痛苦,我的笨筆寫不出一萬分之一二。家中財政本不寬裕,全靠二哥在上海的經營調度。大家從小便是敗家子(成事不足敗事有餘),吸鴉片煙,賭博,錢到手就敗光,光了便回家打主意,見了香爐便拿出去賣,撈著錫茶壺便拿出去典押(=當)。我母親幾次邀了本家長輩來,給他定下每月零用的數目。但她總不夠用,到處都欠下煙債賭債。每年除夕我家中總有一大群討債的,每年一盞燈籠,坐在大廳上不肯去。
  大哥早已避出去了。大廳的兩排椅子上滿滿的都是燈籠和債主。我母親走進走出,料理年夜飯,謝灶神,壓歲錢等事,只當做不曾看見這一群人。到了近半夜,快要“封門”了,我母親才走后門出去,央(央求)一位鄰居本家到我家來,每一家債戶開發一點錢。做好做歹(坏)的,這一群討債的才一個一個提著燈籠走出去。一會兒,大哥敲門回來了。我母親從不罵他一句。並且因為是新年,她臉上從不露出一點怒色。這樣的過年,我過了六七次。
·  大嫂是個最無能而又最不懂事的人,二嫂是個能幹而氣量很窄小的人。她們常常鬧意見,只因為我母親的和氣榜樣,她們還不曾有公然相罵相打的事。她們鬧氣時,只是不說話,不答話,把臉放下來,叫人難看;二嫂生氣時,臉色變青,更是怕冷。她們對我母親鬧氣時,也是如此,我起初全不懂得這一套,後來也漸漸懂得看人的臉色了。我漸漸明白,世界最可厭惡的事莫如一張生氣的臉;世界最下流的事莫過於把生氣的臉擺給旁人看,這比打罵還難受。
  我母親的氣量大,性子好,又因為做了後母後婆婆,她更事事留心,事事格外容忍。大哥的女兒比我只小一歲,她的飲食衣服總是和我的一樣。和她有小爭執,總是我吃虧,母親總是責備我,要我事事讓她。後來大嫂二嫂都生了兒子了,他們生氣時便打罵孩子來出氣,一面打,一面用尖刻有刺的話罵給別人聽。我母親只裝作聽不見。有時候,她實在忍不住了,便悄悄走出門去,或到左鄰立大嫂家去坐一會,或走後門到鄰度嫂家去閑話。她從不和兩個嫂子吵一句嘴。
  每個嫂子一生氣,往往十天半個月不歇,天天走進走出,板著臉,咬著嘴,打罵小孩子出氣。伯母親只忍耐著,到實在不可再忍的一天,她也有她的法子。這一天的天明時,她便不起床,輕輕地哭一場。她不駡一個人,只哭她的丈夫,哭她自己苦命,留不住她丈夫來照管她。她先哭時,聲音很低,漸漸哭出聲來。我醒了起來勸她,她也停不住。
這時候,我總聽得見前堂(二嫂住前堂東房)或後堂(大嫂住後堂西房)有一扇房門開了,一個嫂子走出房向廚房走去。
  不多一會,那位嫂子來敲我們的房門了。我開了房門,她走進來,捧著一碗熱茶,送到我母親床前,勸她止哭,請她喝口熱茶。我母親慢慢停住哭聲,伸手接了茶碗。
那位嫂子站著勸一會,才退出去。沒有一句話提到什麼人,也沒有一個字提到這十天半個月來的氣臉,然而各人心裡明白,泡茶進來的嫂子總是那十天半個月來鬧氣的人。奇怪的很,這一哭之後,至少有一兩個月的太平清淨日子。
  我母親待人最仁慈,最溫和,從來沒有一句傷人感情的話;但她有時候也有剛氣,不受一點人格上的侮辱。我家五叔是個無正業的浪人,有一天在煙舘裏發勞騷,說我母親家中有事總請某人幫忙,大概總有什麼好處給他。這句話傳到了我母親耳朵裏,她氣得大哭,請了幾位本家來,把五叔喊來,她當面質問他,她給了某人什麼好處。直到五叔當眾認錯賠罪,她才罷休。
  我在我母親的教訓之下度過了少年時代,受了她的極大極深的影響。我14歲(其實只有12歲零兩三個月)就離開她了。在這廣漠的人海里獨自混了二十多年,沒有一個人管束過我。如果我學得了一絲一毫的好脾氣,如果我學得了一點點待人接物的和氣,如果我能寬恕人,體諒人——我都得感謝我的慈母。

中国語の文章を書く時は、段落の最初は二文字開けるように言われた。

台湾式かと思ったが、よく見たら大陸のテキストもそうなってた。

今まで全然意識したことがなかった💦

最近、予習もしなくなったので、久しぶりに家で勉強した。

来たばかりのときは毎日図書館に行って予習してたのにだんだんダレてくるものである。