おまけの会社員生活

おまけの会社員生活《ハケンの品格》

五十而知天命、毎日定時退社&有給フル消化の正社員から週休5日、日給5.5万円、在宅勤務のハケン社員になりました

故宮博物院も観光客がいなくてガラガラ

台北旅行中、ずっと雨だったので、故宮博物院に行った。

中国からの旅行客が増えてからも1回行ったはずだが、ブログに書いてないからきっと5年以上前のことだろう。

中国のゼロコロナ政策のおかげで、日本同様、台湾も中国人団体観光客がいないので、今なら故宮博物院をゆっくり観光できる。

メトロで士林に出て、駅の出口からまっすぐ進んで道路と交差した右手に故宮博物院往きのバス停がある。

「紅30」に乗ると、博物院の建物の入口で降りれるが、他のバスは階段下からあるくことになる。

「紅30」はちょうど出たところで、次に来たバスに乗って階段下から歩いていく。

入場料は350元。

リュックサックは、チケット窓口右手にあるコインロッカーに預ける。

いくつかのテーマに沿った特別展示がある。

以下は適当に撮った写真なので、見るなら博物院のHPを見たほうがいい🐽

閑情四事──挿花・焚香・掛画・喫茶

国家図書館(台湾)並びに大阪市立東洋陶磁美術館大阪市)、大徳寺龍光院京都市)の各機関には貴重な所蔵品が出品されている。

唐物丸壺茶入(宗及丸壺)

南宋 12~13世紀 建窯 油滴天目
大阪市立東洋陶磁美術館所蔵(住友グループ寄贈/安宅コレクション)
日本国宝
宋代に流行した黒釉盞は、鎌倉時代(1185~1333)以降、大量に日本へ伝えられ、現在は「天目(または天目茶碗)」と言われている。南宋建窯の油滴天目は室町時代(1336~1573)に人気を博した。茶碗の内外に広がる銀色の斑点が青味を帯びた輝きを放ち、幻想的な美しさがある。口縁部の金覆輪が豪奢な雰囲気を添えている。重さは349gあり、手に持つのにちょうどよい。本作は関白豊臣秀次(1568~1595)の旧蔵だったが、その後、西本願寺、京都三井家、若狭酒井家に伝来した。現存する油滴天目の頂点とも言える作品であり、日本の国宝に指定されている。

中でも希少な曜変天目は世界に3点しかなく、すべてが日本にあるそうだ。

吉宗窒木葉天目茶碗(南宋12~13世紀)

避暑山荘――清帝国多元支配の縮図

避暑山荘は熱河行宮、灤陽行宮とも呼ばれ、康熙四十二年(1703)に造営が始まりました。清代の皇室御苑の中で最大の広さを誇るばかりでなく、目下保存状態が最も良好な離宮です。その名の通り、避暑山荘は皇帝が毎年のように訪れた避暑地ですが、山荘の存在意義はそれだけに留まらないものでした。避暑山荘の所在地である熱河地区は、大部分がモンゴル族の遊牧地であり、清帝国から北アジアを臨む位置にありました。毎年およそ五月から九月にかけて皇帝は避暑のため山荘に滞在し、秋には狩りを行い、モンゴルやチベットの高僧や王侯貴族に接見したほか、外国の使者も山荘に赴き皇帝の謁見を受けました。また、清帝国の数々の重大な政策決定が皇帝の山荘滞在中になされ、山荘より聖旨が下されました。このように清王朝における避暑山荘は、まぎれもなく紫禁城に次ぐ帝国第二の政治の中心でした。

モンゴルの元王朝と違って、蒙古族清王朝は多様性を認めていた。

だから長期に渡って王朝を維持できたけど、最後は漢民族に飲み込まれてしまって、自分たちのアイデンティティーを失ってしまう。

先日、「辛坊治郎 ズーム そこまで言うか!」でも触れられていた象牙の彫刻。

球の中にもう一つ球がある。

どうやって彫ったのだろう。

風格の物語─琺瑯彩磁特別展

文物を見る時、最初に目に入るのはその造形と装飾模様です。もう少し深く理解したいと思えば、関連の時代背景や制作技術について知りたくなるでしょう。それらの要素から形作られる文物の全体的な特色が「風格」です。この視点から見る清朝康熙、雍正、乾隆三朝の時代(1662-1795)に制作された琺瑯彩磁は、18世紀を代表する磁器であります。この度の特別展では、彩料に合わせて行われた研究開発とその使用、為政者である3名の皇帝が官窯へ求めたものの違い、形成された三つの段階における風格の様式について解説します。

解説といっても、英語と中国語だし、もともとの教養がないからわからない。

清 乾隆 洋彩漁村行樂圖轉足碗

清 乾隆 洋彩黃錦地玲瓏詩意轎瓶 附木匣

清 乾隆 琺瑯彩錦地開光西洋人物貫耳瓶

小型の瓶で、口は小さく、首は長い。首の側面に貫耳が付いている。胴は長く、高台は低い。胎はやや厚く、胴の両面に開光(額縁風の装飾模様)があり、西洋の風景と聖母子像が描かれている。開光の周囲には、赤や緑、黄色など、様々な色の釉彩を用いて、しなる枝や如意雲、枝葉の絡まる花々などが描かれている。狭い画面が花の模様で埋め尽くされ、絢爛豪華な錦織りのようである。底に青で書かれた「乾隆年製」4文字の宋体款がある。18世紀は中国と各国との交流が盛んになり、清朝宮廷内にも、特殊な才芸を身に付けた欧州出身の宣教師たちが大勢いた。宣教師たちは宮廷美術の研究開発や設計に参与すると同時に、西洋文化を中国に伝え、西洋風装飾の誕生に影響を与えた。例えば、西洋女性の頭上に輝く白い光輪は聖母を表し、その前で花を捧げる子供は聖子である。乾隆官窯で登場した聖母子像と西洋の風景は、この時代の中西芸術交流の状況が反映されている。

清 康熙 錦地開光西洋仕女肖像畫碗 「大明弘治年製」款

陶器の枕。

こんなので寝たら頭が痛くなりそう。

清 18世紀 太平有象磁尊

宝瓶を背負う象形の磁器。大きな象が4本の足で真っ直ぐに立ち、後ろを振り返っている。目を大きく見開き、鼻を巻き上げている。鼻の両側から長い牙が突き出し、耳はだらりと垂れ、尾は足を叩いている。背に元宝形の鞍を付け、その上に出戟磁尊を載せている。垂れ下がる分厚く長い緞子は、如意や吉罄、コウモリ、波涛、瓔珞、連珠紋などの模様で彩られている。象の身体は灰色がかった茶色の釉が施されており、部分的に濃い色で毛が描かれている。4本の足先は無釉で胎が露わになっている。出戟磁尊は青緑色の釉の地に、赤と緑で番蓮紋が描かれ、口縁に金が塗られている。この作品に落款はないが、器形と紋飾を見ると、乾隆朝で造られた可能性がある。鞍の緞子の模様は長寿や招福、開運を象徴し、象と宝瓶は「太平有象」(天下泰平)を意味しており、官様の造形に属する。磁胎のほか、銅胎掐絲琺瑯で作られたものもあり、対で陳列されている。

清 乾隆 霽青描金游魚転心瓶

内瓶と外瓶からなる転心瓶。長い首に豊かな肩、すぼまった胴、高台は低い。肩に円環形の耳が四つ付いている。胴は内外2層になっており、内瓶は淡い青緑色の釉で水中のような背景が表現され、水草や落花、金魚が粉彩で描かれている。底にも青緑色の釉が施されており、「大清乾隆年製」と青花で書かれた篆書の款識がある。外瓶の胴に4面の開光(額縁風の装飾)があり、首を握って回すと、外瓶の開光から内瓶に描かれた水草や金魚の模様が走馬灯のように回転し、金魚が悠々と泳いでいるように見えるため、「転心瓶」という名がある。

ヤモリ?

蓮をイメージしてる?

明 万暦 五彩百鹿尊

唇口(玉縁)の百鹿尊、やや大きく開いた口、短く直線的な首、緩やかな曲線を描く肩、腰から僅かにすぼまる大きな胴、平らな底。口縁は2本の青い線で装飾されており、首は花や枝葉、桃の実の模様で飾られている。肩には青花で雲紋が描いてあり、茶色と緑色2色の飄帶紋が垂れ下がっている。中央の主紋は岩石や草叢、樹木、雲の間を縫うようにして、五彩の鹿の群れ89頭が描かれている。底近くには地面のような模様が一周しており、赤と緑が互いに映え、にぎわいを感じさせる。底は胎がのぞいており、中央のへこみにのみ釉がかけられ、「大明万暦年製」と青花で書かれた楷書体の款識がある。万暦年間は磁器の製造量が激増したため、朝廷の出費も膨れ上がった。主要製品は前期官窯の典型的な風格を継承しただけでなく、器形や紋飾、装飾技法においても発展を続けた。その中では、五彩に代表される各種の絵模様が盛んに描かれるようになった。題材は吉祥図案や仙人などのほか、仏教と道教に関連する模様が多い。『江西省大志』には、朝廷から求められた磁器制作に対する要求の詳細─器形や数量、装飾のモチーフなどが記録されており、当時の磁器発注に関するおおよその状況や規模が推測できる。特に万暦19年は様式の種類と制作数が最も多い年で、その年に制作が命じられた「五彩百鹿永保乾坤罈」は、この百鹿尊のような作品だった可能性が高い。

士拿乎—清朝宮廷鼻煙壺の流行

西洋からもたらされた「鼻煙」(snuff / 嗅ぎたばこ)は、早期に「士拿乎」と翻訳されました。康熙帝の時代にはすでに伝来しており、発酵させたたばこの葉を粉砕してから香料を加えて作りました。嗅ぎタバコを楽しむ時は粉末を直接鼻から吸引します。そうすると、鼻の通りがよくなるだけでなく、気付けにも効果があります。嗅ぎたばこが「士拿乎」と翻訳されたのは、当時まだ嗅ぎたばこは貴重品で、宮廷と王侯貴族、士大夫以上の階級にしか流通していなかったからかもしれません。

西洋では細かな粉末状の嗅ぎたばこを小箱に入れていましたが、清朝宮廷では小口で丸い鼻煙壺に蓋と匙を付けて使うようになりました。それが当時流行のファッションになったのです。早期は色とりどりのガラスや套玻璃のほか、各種鉱石や動物の牙角を彫刻したものもあり、金属胎琺瑯、制作難易度の高い玻璃胎琺瑯、磁器、ヒョウタンを使った工芸品まで登場しました。その後、嗅ぎたばこのために内絵ガラスも発明されるなど、当時の各種工芸技術のほとんどがこのミニサイズの小瓶に集約されているのです。

清 19世紀 磁胎黄釉玉蜀黍形鼻煙壺清(右)

鑑古─乾隆朝の宮廷銅器コレクション

乾隆帝(在位期間:1736-1795)は古代の銅器を多数所蔵していました。その他の貴重な所蔵品と同じように、それらの銅器も各宮殿に陳列され、清朝宮廷の日常風景となっていました。特別なのは、群臣を召集して銅器の大きさを測らせ、絵図や解説文も書かせたことです。乾隆帝は在位期間の60年を通して、それらの整理や編集作業を継続して行い、宮廷が所蔵する銅器の図録3部を完成させました。写真技術もデジタルデータベースもなかった時代に、多くの人力を費やした編纂作業により、清朝宮廷にあった大量の銅器の形状や外観の記録が残され、朝廷が制作した最大規模の図鑑が誕生したのです。

今の時代に乾隆朝の銅器図録を開いて見ると、当時は古代史を知るための方法の一つだったことがわかります。夏・殷・周─この三つの時代に対する未知と想像から、神秘的な紋飾と古代の文字が刻された銅器は、古人らが古代史を理解しようと努めつつ、美術品として鑑賞する対象となったのです。乾隆朝で精選された銅器と、分類してから絵図が制作された図録は、歴史的文物に対する考え方だけでなく、鑑賞の過程における知識の変遷も反映されています。今日、考古資料が次々と出土する中で、科学技術を用いた調査も加わり、銅器の名称や年代、地域的な風格にも新たな知見が得られています。古代の銅器を通して古代文明に入り込むにも、以前より多くのルートがあります。

西周晚期 鳧叔匜

戦国中期 嵌孔雀石緑松石犧尊

戦国中期 嵌松緑石金属絲犧尊

この銅器は有蹄四足動物の形に作られている。頭部に立つ耳、丸い目、有蹄四足、尾は垂れ下がっている。動物の姿態や質感が写実的に表現されている。戦国時代の酒器で、動物の口が流(注ぎ口)になっており、背にある蓋を開けて、中に酒を注ぎ入れることができる。器表は黒褐色だが、青緑色が混じっている。銀糸を埋めた斜角雲紋と、華やかなトルコ石、金銀の象嵌で全体が装飾されている。顔の部分は、目に丸い金が象嵌してあり、鼻梁と眉、額はトルコ石で装飾されている。首にも金をはめ込んで首輪としている。背の蓋には、金銀で象嵌した蟠龍の模様がある。

西周早期 双龍紋簋

小さな口、鼓腹、獣頭を象った半円形の耳に垂れ下がる方形の珥、圏足はやや外向きに広がっている。双龍をモチーフに装飾されており、蓋に対称的な柱状の角と巻貝状の角がある。双龍が絡みつく器身に蓋をはめると、龍頭と身体が組み合わさり、完全な図形となる。これに近い図飾はフリーア美術館(米国)所蔵の人面盉に見える。内底の「作宝彝」3文字は後に付けられたものである。

商(殷)代晚期 亞醜者姤方尊

方形の器身。大きく開いた口、短い首。高さのある圏足は外向きに開いており、耳が二つ付いている。全体に扉棱がある。首と足の広い面は夔鳳紋、腹は獣面紋、足の狭い面は鳥紋で装飾されている。地は全て雲雷紋で埋められている。底に補強用の筋が残されている。器内の底に「亞醜」という族氏銘文がある。

玉で作った苦瓜。

鎖になるように掘ったってこと?

雨で行くところがないので、今回は3時間かけてゆっくり見て回った。

書とか絵画は見てもわからないのでつまらない。

陶磁器とか玉とか大昔の遺物はわからないなりに楽しめる。